やめようときめたのは尖端ではないのだらう蔦があんなところで

平井弘『振りまはした花のやうに』(2006)

枯れた蔦の先の方が、高い壁にこびりついて残っている。根や葉や蔓の太い部分は既にない。生きるのを止めにしたのは、前へ前へと伸びていこうとしていた尖端の部分ではなかったのだ。……もし、実景として解釈するならば、そんなふうになるだろうか。

しかし、この歌は単に蔦のことを言っているのだろうか。蔦に託して、全然別のことを暗示しているような気もする。たとえば、時代の尖端を行く研究が予算の都合で「やめようときめ」られてしまうことは、決して珍しくない。

もちろん、解釈を一つに絞る必要はない。蔦のことを言っているのか、それとも別の何かのことを言っているのか、判別しがたい混沌とした雰囲気こそが、この歌の持ち味なのだから。

 

  じぶんではその気だらうが動かないもの鳩なんておもやしないよ

  そのきくを二本くださいいつぽんは墓前のそれといふことにして

  そこを踏んでごらんいいからまちがつてもあのときの球根だから

  ここで見てしまつたことの重さに蚕豆のはなの目のかくれがち

 

いずれの歌も、あえて具体と抽象のはざまを行くような言葉が選択されており、読む者の心をぐらぐらと不安にさせる。特徴的なのは、「あんなところ」「その気」「そのきく」「それ」「そこ」「あのとき」「ここ」など、指示代名詞を多用しているところ。何を代入するかでシチュエーションが変わってくる。「踏んでごらん」と許された「そこ」に埋まっているのは、球根か、はたまた地雷か。

 

平井弘の第一歌集『顔をあげる』(1961)は、「戦争を生き延びてしまった少年」が大きなテーマになっていた。

 

  空に征きし兄たちの群わけり雲わけり葡萄のたね吐くむこう

  雨期きらう父に伐られて無花果のもっとも深い空見うしなう

  いる筈のなきものたちを栗の木に呼びだして妹の意地っぱり

 

輪郭のくっきりとしたこれらの歌に比べて、『振りまはした花のやうに』に収められた歌はどれも曖昧模糊としており、答えがわかりそうでわからないもどかしさがある。けれども、鍵穴に合わない鍵を延々差し続ける悪夢のようなその不穏な気配は、〈戦後〉を遠く隔たってしまった時代を確かに反映しているし、その文体には、顔をあげたまま歌い続けることのできなかった平井弘の、作家としての苦悩も塗り込められているように感じるのである。

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