かなかなやわれを残りの時間ごと欲しと言いける声の寂しさ

佐伯裕子『あした、また』(1994年)

ひぐらしの鳴き声は、「キキキキ・・・」とも「カナカナカナ」ともきこえ、その声がそのまま呼び名になって「かなかな」とも呼ばれるのは周知のとおり。
そのダイレクトな命名のせいか、「かなかな」と呼ぶときには「ヒグラシ」とはまたちがった理屈ぬきのさびしさを感じる。

まず「残りの時間」という表現にこころが動く。
生きていると、人生にあたえられた時間のひとくぎりにさしかかっているというおもいを持つことがある。そして、自分に残された時間はあとどれくらいだろう、と。

いったい「われを残りの時間ごと欲しと言いける声」はだれの声なのか。

「かなかな」の声をきいているとそこが非現実の空間のように感じられ、幻想のように「残りの時間ごと欲しい」ときこえた声だったのか。
または、「かなかな」の声を背景にした、現実のこいびとの声。
それとも記憶の底に沈んでいる、かつてそういわれた声が、「かなかな」の声をきいているとよみがえってきたのか。

どう読んでも、いい。
たしかに「残りの時間ごと欲しと言いける声」が聞こえた。

結句を「寂しさ」でおさめるという甘くなりがちな表現の難しさを、初句から四句目までの序詞ともとれる散文体によって成功させているのがおそらくこの歌の最大の魅力だろう。
この「寂しさ」によって、普遍的でありかつ具体的な場面が再現されるのだ。
気がつけばひとりぽつんと、夏のけだるさのなかに佇んでいる。

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