よきものとなりますように 落鳥の地から萌え出る楡の木もあり

伊津野重美「生命の回廊」3号(2011年)

 

「落鳥の地から」一連十七首より。落鳥という言葉は国語辞書に載っていないが、鳥を飼っている人の間で使われる用語らしい。鳥が死ぬという意味だ。「飼っていたインコが落鳥した、インコを落鳥させた」のように使う。こういうことを知らなくても、落葉や落日という言葉から意味は想像できる。葉が落ちる、日が落ちる、鳥が落ちる。落鳥に似たことばに落馬があるが、「サラブレッドが落馬した」という言い方はできないのだからことばは面白い。

 

祈りの歌だ。大地は鳥が落ちて死ぬところであり、またそれは屍の養分を吸った楡の種が芽を出すところでもある。大地から芽生えた楡の木がすこやかに育ちますように、よきものとなりますように、と語り手は祈る。

 

このページでは、ことばを目で読みとって歌の中身を自分のなかへ送りこむわけだが、ことばを耳で聞きとって自分のなかへ送りこむとき、歌はまったくちがう姿をあらわす。ということを、昨秋わたしは、伊津野重美の朗読に触れて知った。朗読会「フォルテピアニシモ vol.8」で、彼女は上の歌を含む一連十七首を読んだ。この人は、ささやきがため息に変わる一歩手前のような声の使い手だ。あるかなきかの声。いや声というより、それは九十九パーセントの息の中にほんのわずか声の成分が混じっている響き、とでもいいたくなるものだ。スピーカーを通して拡大される、その息ほどの声、声ほどの息。こじんまりした会場の中、舞台と客席は近い。歌を朗読する伊津野本人は目の前に立っているのに、ことばはどこかはるか遠くから聞こえてくる。そんな錯覚をおぼえる。脳のなかに直接そそぎこまれる、ことばのひとつ、ひとつ。夜、眠る前にふとんの中で目をつぶりながら聞きたくなる。

 

よきものと なり ます 

ように 

らくちょうの ち

からもえでるにれの

きも 

あり

 

試みに、上の歌をひらがなで書いてみた。こう書くと、少しだけ会場で聞いた感じに近づく。しかし、あたりまえのことながら耳で捉える歌とはずいぶん違う。目で知る歌と、耳で知る歌。視覚短歌と、聴覚短歌。それぞれによさがある。伊津野重美作品の場合、作家本人の声を通してふれる歌のかたちは格別だ。

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