燐寸と書きてマッチと読むことを知らざる子らが街を闊歩す

尾崎左永子『椿くれなゐ』(2010年)

 

花には花の風には風のことばありて私は放つ私のことば

 

歌集『椿くれなゐ』はこの一首からはじまる。尾崎左永子は後記につぎのように記す。

 

「短歌が好きである。好きだから続けて来た。だが、残りの時間の永かろうはずもない。時の流れの速さは増すばかりである。この現実のなかで、いくばくか、自らが選び歩んで来た道を、真向から信じたい気持もある。しかしいま、戦いは終った、という感慨を否めない。むろん、私はこれからも歌を作りつづけるだろう。しかし、自らの手で選び、編むという歌集は、おそらくこれが最後になるだろうと思っている。」

 

尾崎は、「短歌が好きである。好きだから続けて来た」という。なんでもないようなフレーズだが、こんな素直な、あるいは無防備な言い方はなかなかできないのではないだろうか。「短歌が好きである。好きだから続けて来た」。私も心のなかで呟いてみる。なんだかとてもうれしい。なんだかとても勇気が湧いてくる。尾崎は、「戦いは終った、という感慨を否めない」という。そして、「自らの手で選び、編むという歌集は、おそらくこれが最後になるだろうと思っている」と。しかし、このフレーズを読んでも、不思議と悲しい気持ちにはならない。逆に、清々しい気持ちで心が満たされていく。意志の美しさ。

この意志のありようが、「ことばありて」の「て」を置かせるのだと思う。そして「放つ」という強いことばを選ばせるのだと思う。

 

病廊を清掃しゆく機器の音遠ざかり日曜の夕ぐれが来る

午後の曇り明るみたれど石畳行くわれの影いまだ生まれず

夕映を収めて暗き存在となりゆく雲を永く見てゐつ

ここは坂多き町ゆゑいま見えし冬凪の海たちまち見えず

満ち潮に運河ふくらむ夕つ方春の入日はかがやき白し

ふり返りもの言ふ人のひとことを聞き逃したり鉄橋の下

新入社員の集団はみな紺系の背広にてまひる交叉路わたる

 

一冊には、日常を静かに見つめる著者がいる。そこには時間がある。時間が鮮やかに切り取られている。たとえば一首目。機器の遠ざかるのはたかだか数分から十分程度の時間だろう。また、夕ぐれは一日のある時間、日曜は一週間のある時間。もうすこしボリュームがあり、いずれも繰り返しやってくる、そんな時間。こうしたいくつかの時間が交叉しながら、病廊という「いま・ここ」を浮かび上がらせる。

 

燐寸と書きてマッチと読むことを知らざる子らが街を闊歩す

 

不思議な一首である。一読し、ああ、なるほど、と思うのだが、ほんとうに「燐寸と書きてマッチと読むことを知らざる子ら」なのだろうか、とも思うのだ。闊歩している子らのうち何人かは知っているだろう、といっているのではない。集団として、あるいは世代として、「燐寸と書きてマッチと読むことを知らざる子ら」なのだと思う。しかし同時に、「読むことを知っている子ら」ではないかとも思うのだ。書かれていない、しかも書かれていることと正反対のことを思わせる不思議さ。不気味さといったほうがいいのかもしれない。

尾崎は、過去と現在と未来を同時に見ているのかもしれない。そして、時代や世代の変化の本質を掴み出しているのだろう。

 

「いずれにせよ、いくら工夫を凝らしてみても、あらゆる反逆は、やがて伝統にのみ込まれてしまう。最近、「短歌の伝統」の怖さと重味を、改めて思うことがある。」

 

後記には、このようにも記されている。

 

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