百々登美子『風鐸』(2005年)
百々登美子の作品は、日常に素材を取りながらも、ニュアンスをもった文体とコラージュの具合が、日常とすこし離れたイメージを形づくっている。
瞑想に来よと誘ふ告知板まこと遠くて柚子の実を買ふ
狗鷲(いぬわし)も樹神も死にき一撃の音閉ぢ込めて山は昏れたり
軒下にどくだみあまた吊す家過ぎて指(おゆび)を洗ふ人思ふ
吸ふ息の吐き切れぬさま声にして老犬は夏越えてゆくらし
ひとすぢの煙のあがる坂ありき坂のかなたに山青からむ
たあらりと嘴に余れるもの提げて晩夏の百舌は笑はれゐたり
母の老いわれは知らざり娘の老いを母は見るなし互みのつぺら
とても魅力的なのだが、なんだか怖い感じがして、できれば近づきたくない、そんなことを思ったりもする。しかし、作品が強く読者を引っ張る。詠まれていることがらの意味内容が取りにくい作品もあるが、一首一首に、歌うことの核、あるいはそのイメージの核が確かな形としてあるため、読みという働きかけが一点に収斂していく。そして、格調ということを思う。格調がリアリティを支えている、ということ。
夜は巨大なたまご生むとぞ闇深く匂へるまでに黒きたまごを
すっと読めそうで、いきなり難しい。初句の「は」は、主題を提示しているのか、他と区別しているのか。夜が巨大なたまごを生むのか、夜に巨大なたまごを生むのか。
おそらく、どちらでもあるのだろう。夜が夜に、巨大なたまご生むのだ。闇が深く、そして闇に深く匂えるまでに黒きたまご。それはつまり夜。夜が夜に、夜を生むのだ。ここには、私たちが忘れがちになる、夜の実体がある。