エントランス前で雪かきする人がはげしき息の挨拶をせり

紺野裕子『硝子のむかう』(2012年)

 

「エントランス」という言葉をいきなり初句にもってくるところに、作者のことば選びのセンスを見る。エントランスは英語からきた外来語で、”entrance”は部屋や建物に通じる扉や入口という意味だが、「エントランス」と片仮名で書けば外来語という名の日本語となり、マンションやホテルなど大きな建物の入口を指しつつ高級感をかもしだす。「美術館のエントランス」とはいうが、「木造アパートのエントランス」とはあまりいわない。

 

歌は、そのエントランスの前で、雪かきをするマンションの住人同士が、白い息を吐きながら、たぶん朝の挨拶だろう、おはようございますなどと挨拶を交わしたという。語り手は、窓から通りの風景を見ているのか、ゆきずりに見たのか、挨拶の言葉そのものは聞こえない位置にいる印象を受ける。声は聞こえず、息だけが見えた。

 

「はげしき息」がいい。「白き息」などといわない。それでいて、読み手にありありと白い息を思わせる。息の白さは、そのまま寒さのきびしさであり、雪かきという労働のはげしさだろう。ふつう人がゼイゼイと「はげしき息」をつくのは、百メートル疾走後や、高熱に倒れたときなどだ。雪かきの人たちは、実際はそこまで息を切らしていないかもしれない。だが、語り手はそれに近い印象を受けた。

 

この「はげしき」に、旅行者の目を感じる。訪問者の新鮮な驚き。毎日白い息を吐いて雪かきをする雪国の人にとって、雪かきが重労働なのも、息が白いのもあたりまえのことであり、ことさら「はげしい」とは感じないだろう。そういえば、関東地方に生まれ育った私にとって、冬に青空がつづくのはあたりまえであり、「空が青いな」とは思うが「毎日よく続くな」とは思わない。けれど、新潟出身の友人は東京の大学生になったとき、ひたすら連日つづく冬の晴天が信じられず、騙されているような気がしたという。彼女がもしも短歌の作り手だったら、「どこまでも毎日つづく青空の……」のような歌を書いたかもしれない。

 

いうまでもなく「はげし」は強い語だ。短歌への持ちこみは細心の注意がいるだろう。持ちこまない作者もいる。たとえば、佐藤佐太郎は、代表三歌集『歩道』『帰潮』『群丘』を見るかぎりでは使っていない。大音響の描写は「音たてて」くらいにことばを抑え、一首全体で音の強さを感じさせる。そういう行き方だ。とはいえ、「はげし」に似る「きびし」の方は使っている。このあたりは、作者それぞれの語感によるかもしれない。

ともあれ、この雪かきの歌は、「はげしき」がよく働いている珍しい例といえるだろう。

 

その土地の人間には見えないものがある。旅行者でなければ見えないもの。「はげしき息」で、作者はそれを捉えた。

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