折々の母老いしむる「ありがとね」その不可思議な響きのにがさ

和嶋勝利『雛罌粟(コクリコ)の気圏』(2009年)

母が口にする「ありがとね」。
感謝されるようなことはしていない。それなのに、連絡したり会いに行ったりするとかならず母はそう言う。たびたび言う。
「ありがとね」という言葉の「響き」。
<母はいつもひとり待っているのだ>ということを「ありがとね」という言葉とそのニュアンスによって知らされる。だからそれは「不可思議な響きのにがさ」なのだとおもう。

さらに「老いしむる」という表現からも、その切なさが伝わる。
自分が子どものころは活き活きと働き、叱ってくれた母が、しずかに「ありがとね」ということによって、その老いは現実としてつきつけられる。

ひとはいつ、母から自立して生きている、と感じるようになるのだろう。
道を一緒に歩くとき、ゆっくり歩く母。何度も同じことを言う母。そんな母の姿に気づく瞬間がある。
いつまでも母は母で、子は子だけれど、母が老いたと感じた瞬間、母への意識は変わってしまう。
いっぽうで母に感謝しているのは自分なのに、だいたいそれはうまく伝えられない。老いた母を見る切なさに、逆に苛苛したりしてしまう。
「ありがとね」などと言ってくれるな、母よ。

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