曖昧に蓴菜(じゅんさい)すする昼の餉(け)や薄暮家族となりゆくわれら

雨宮雅子『昼顔の譜』(2003年)

 

雨宮雅子には10冊の歌集がある。

 

灯にさらす胡桃の五つ掌に鳴りてあるいは鳥の五つの頭蓋

雷はしる刹那刹那を神の手の白きはのびるはくれんのうへ

地を歩む足裏のみの確かさに遠世(とほよ)の蝉のこゑくだりくる

かまつかは煌煌としてくらきかな陶器工場引込線跡

自動扉の開閉つねにおそろしきそこより見知らぬ街がつづけり

 

最初の歌集『鶴の夜明けぬ』(1976年)は、たとえばこうした作品を収めている。端正な、しかし強く著者の個性を放つ作品たち。現実と観念との往復のなかで形となった、そんな作品だと思う。

端正な佇まいは現在まで変わらない雨宮作品の特徴だが、5冊目の歌集『熱月』(1994年)あたりから、自らの身体を響かせるような印象の作品が見られるようになる。そしてさらに、6冊目の歌集『雲の午後』(1997年)以降、現実の側に立ちながら、観念の側からの呼びかけを受け止める、そんな作品が紡がれていく。それは自己の存在を正しく肯定する、雨宮が独自に掴んだ方法なのだと思う。

 

曖昧に蓴菜(じゅんさい)すする昼の餉(け)や薄暮家族となりゆくわれら

 

昼餉は、朝餉や夕餉と異なり、なんだかとても不安定な食事のありようだ。不安定とは、なにかがふっと現れる空間/時間のこと。寒天質で覆われた若芽の蓴菜は、やはり曖昧にすするしかないのだ。曖昧に蓴菜をすすりながら、薄暮家族になっていくことに立ち会う著者。この静かな肯定が大きな魅力である。静かな肯定。それは、自らのすべてで肯定すること。それは、自らのすべてを委ねること。このことを、読者は深いところで受け止めていく。

 

コンクリートの骨材となる砂利の山よぎり来しよりしぐれはじめぬ

曲るホームに沿ひて列車の止まれるは体感のやうにさびしかる景

大寒といへど雨後なるやはらかき大気に触れて土に降り立つ

管(くだ)につながるる命のごとくあまたなるコード這はせし家暮れてゆく

なすすべもなく両の手を垂れてゐる者のやうなり曇る日暮れは

 

昨年(2012年)上梓された歌集『水の花』から引いた。日常に身を置くこと。私たちにとってそれはあたりまえのこと。しかし、日常を自らの意志によって形づくっている人はけっして多くはないだろう。雨宮の意志は、日常を確かに形づくっている。そう思うのである。

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