書く前の会津八一が白紙を見据ゑてじつと立ち居る写真

安立スハル『安立スハル全歌集』(2007年)

 

安立(あんりゅう)スハルは、2006年2月26日に83歳で死去した。この全歌集は、生前に出された唯一の歌集『この梅生ずべし』とそれ以後の作を収録する。

 

よく知られるとおり、会津八一(あいづやいち 1881―1956)は、歌人にして書家、美術史家だ。自著、評伝ともに数が多い。短歌界では目下「歌壇」誌上に山田富士郎が評伝を書きついでいる。

 

歌に登場するのは、書家としての会津八一だ。これから字を書こうとする八一が、机の上に置いた白い紙、たぶん大き目の紙だろう、それを見据えてじっと立っている写真を<わたし>は見た。写真は、八一の展覧会で見たものかもしれないし、雑誌や本で見た一枚かもしれない。

 

「書く前の」と端的に詠いおこし、以下四句を簡潔に述べて、書家の気迫をありあり伝える。一気に何かを成そうという人の、精神の集中。はりつめた表情、その厳しさ、美しさ。たとえばこれは、スポーツ中継などで見る、百メートル走直前の選手の顔の美しさに通じるだろう。

この人の歌は読み手に精神の平手打ちを食わせるようなところがあり、それが安立作品を読む快感なのだが、ここでも書家の姿に読み手の背筋はぴんとのびる。

 

作者は卓越した技を持つ。ふつうのことばを、ふつうに使いつつ、景をくっきり立たせる。この「ふつうのことばを、ふつうに使」って印象鮮明なことをいうのが、韻文でも散文でも一番むずかしい。この歌は初句「書く前の」が出たところで勝負はほぼついたようなものだが、その後も「半紙」「短冊」ではなく「白紙」を差し出し、「見据ゑてじつと立ち」と何の変哲もない表現を置いてぴたりと決める。紙の前に立つ書家はいま手に筆を持っているはずだが、それには触れず眼差しに集中する。書家の眼光の鋭さは、そのまま写真を観察する作者の目の鋭さだ。

 

と書いてきて思い至るのは、写真を撮ったカメラマンの腕まえだ。歌人が上に述べたような観察をしたのは、写真家がその瞬間をそう切り取ったからにほかならない。写真はその場にいなければ撮れないし、反射神経がなければ撮れない。一人の書家を、これ以上ないタイミングと構図で、写真家は捉えた。おそらくピントや絞りも完璧だった。会心の一枚といえるのではないか。もしも写真が並の出来だったら、作者の方もとりたてて歌にしようと思わなかっただろう。

 

安立スハルはこの歌で、会津八一の眼光の鋭さを捉えた写真家の腕を捉えた、といっていい。結句の「写真」がそれを示している。

一首は、八一についての歌というより、写真家の腕についての歌なのである。

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