行きずりにタアバン白き少女見て塑像かと思ふくれぐれの橋

前川緑『みどり抄』(1952年)

 

前川緑は、1997年の5月21日に85歳で死去した。『みどり抄』は作者の第一歌集だ。

たそがれ時である。とある橋をわたるとき白いターバンの少女の前を通りすぎた<わたし>は、少女がじっと立ちつくしているさまを塑像のようだと思った、と読む。「ターバン」ならぬ「タアバン」に、昭和モダンの香りがただよう。「動かず」「身じろぎせず」などの説明を省いて「塑像かと思ふ」といったところが眼目だ。「思ふ」は終止形と取る。四句でいったん切れ、結句「くれぐれの橋」で時と場所を示す。「タアバン」の「ター」、「少女」の「ショー」、「塑像」の「ゾー」と、のばす音を連ねておいて、最後に「クレグレ」と細切れの音で仕上げる。響き内容ともに印象鮮明な歌だ。

 

さてここで、第一歌集における序文跋文の類について考えてみたい。これらは何のためにあるのかといえば、歌集の質を保証するためだろう。「この新人がでたらめな歌を作る輩でないことは、私が保証しますので、どうかお目通しください」という身元保証人からのメッセージだ。身元保証人が短歌界で一目置かれる人であればあるほど、メッセージの信頼度は上昇する。ただし読者としての経験によれば、保証の文章が長ければ長いほど作品の質は低下する。何ページにもわたる解説付の歌集は、たいてい読みごたえがない。

 

保証書という観点において『みどり抄』は、面妖な様相を呈する。歌集上梓の当時、作者は前川佐美雄と結婚後15年を経ており、一読者の勝手な想像をひろげれば、夫が妻のために手をつくしたのだろう、序文跋文の類が豪華絢爛中の絢爛なのである。現代短歌文庫『前川緑歌集』に完本収録されている『みどり抄』には、佐佐木信綱の序歌二首、亀井勝一郎の序文に加え、保田與重郎の解題が付いている。「窈窕記」(ようちょうき)と題する保田の解説は、四百字詰原稿用紙にして74枚分におよぶ。短歌文庫のページ数でいえば『みどり抄』全体の40%を占める。分量の4割が解説から成る第一歌集とは何であろうか。さらに、作者の「後記」によれば「題字」は吉井勇とおぼしい「吉井先生」の手によったらしい。大物4人の動員。

これほど外見が豪華ということは、どれほど中身が貧弱なのだろう。そう思ってこの歌集を読みだした私の予想は、しかし途中で裏切られた。『みどり抄』は上にあげた歌をはじめ、作品の力だけでじゅうぶん読ませる歌集だったのである。せっかくの作品がもったいない、といいたくなる。

 

「窈窕記」とは、美女に捧げる記ほどの意味だろう。タイトルこそふるっているが、中身は長いだけが取り柄といいたくなる作物だ。作品解説のあいまに、保田はアララギに対するらしい写生批判を始める。いわく「所謂写生にはもう少し品下つた色好みと、ものほしさと――つまり欲がある。私にはそれがなじめぬ」。あるいは、短歌と無関係な説教を始める。いわく「民族と歴史と、その文化は敗れたり滅んだりするものではないといふ信念は、当然のことだ」。

第一歌集の解題を頼まれてこんな長文を書いてしまい、またそれを載せてしまう。保田與重郎、前川佐美雄、前川緑という人たちの常軌を逸したところを実感するのに最適の読み物ではある。

 

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