河野愛子『草の翳りに』(1966年)
ロシア語のページもありし吾が夫の日記ひそかに閉ぢておきたり
吾がペンに夫がインクを入れてゐる静かなる夜よ梟が啼く
ベッドの上にひとときパラソルを拡げつつ癒ゆる日あれな唯一人の為め
思いが透明感をもってことばになった、そんな相聞歌。こうした作品を収める『木の間の道』から11年を経て、河野愛子の2冊目の歌集『草の翳りに』は上梓された。
風の日の気温の上る家のうちしなやかに赤きセーターを著る
歩みつつ手の肌理ぬくき日のひかり子のをらぬこときよくもあるか
血を喀きしは個室に行きて何か小さき祭壇を置くあたらしき人
一日を遊びつくしし子の声の嗄れてゐるきこゆ人の家の子
ものなべてあはれなり春夕つ方キャベツをいだきたる吾の影
ここには、日常がときおり垣間見せる、ひとの心の屈折がある。河野は、おそらく自身の経験を通してこのようにことばにしていくが、それは河野ひとりのものではない。女性という身体が抱え込んでいるそれ、あるいは、その生理に期待されるイメージ。それに対する否定と肯定が混じり合って、一首になった作品たちなのだと思う。
ひそかなる盗みに似たりひとりなる姪を抱きて行く街のうら
自身と同じ血が流れている「ひとりなる姪」。その「姪を抱きて行く街のうら」。それを「ひそかなる盗みに似たり」と把握する感覚。美しい一首だ。
盗みは本来ひそかなもの。ひそかに他人のものをとって自分のものにする。それが盗みだ。ひそかなものと自覚する河野の意志が、「ひそかなる」の一語を置く。ここには、否定も肯定もない。ひそかなものとしての盗みを通して、否定や肯定とは別の水準に自身を置こうとしているのだろう。
そしてこうした試みの向こうに、歌集『魚文光』(1972年)があるのだと思う。
乾かざるはらわたふかく見えながら葱などを抱く人の妻たち
夕ぐれは肉のもなかに盛んなる肉屋の指をかいまみるかな
人間ばかり歴史をもちてかなしきを空は荒びてもがく春の鳥