無抵抗主義者のやうなる草の根のおどろくばかり長し三月

荒垣章子(あらがきあきこ)『虚空の振子』(2013年)

 

いきなり「無抵抗主義者」と詠い起こし、何事が起きたかと読者を引きこむ。無抵抗主義ということばは、ガンジーやトルストイを思わせる。政治権力からの暴力的な迫害に対して、暴力を使わずに抵抗しようとする考え。非暴力主義ともいう。

 

場面は、春の草取だ。<わたし>に抜かれる草の根は、おとなしく引きぬかれるようでいて、いくら引っ張ってもずるずるとおどろくほど長くつながっており、まるで無抵抗主義者のようだ、という。ときは三月。まったく新しい三月像の提出である。無抵抗主義者のような草の根が生息する三月。「草の根」は、草の根民主主義などというときの草の根とひびきあうだろう。目には目を、歯には歯を式ではない抵抗方式、すなわち抵抗をしないという抵抗のやりかたが、実はいちばんしぶといのである。

 

<無抵抗/主義者のやうなる/草の根の/おどろくばかり/長し三月>と切れ、5・8・5・7・7の31音だ。二句は「主義者のやうな」とせず、1音増やしても「やうなる」と文語でいく。初句と二句の間に句跨り、結句に「長し/三月」と句割れを使ったテクニカルな作りだ。

「無抵抗主義者」という大上段に振りかぶることば、いわばジェットコースターの一番高い所から入って、日常卑近な草取りへ急転直下する展開がおもしろい。作者一流のとぼけ方、ユーモア精神の発露だ。

とぼけるといえば、歌集の中にはこんな一首もある。

 

茂吉を読む前に『茂吉を読む』を読む何かにしつかりつかまりたくて

 

『茂吉を読む』は2003年に刊行された、小池光の著書だ。斎藤茂吉を読んで、前川佐美雄賞を受賞した。こういう歌を前にすると、とぼける時は悪びれずに堂々ととぼけるが勝ち、ということが感得される。ただし、とぼけるためにはそれ相応の技が必要だ。『虚空の振子』は作者の第五歌集に当たり、あとがきによれば森岡貞香に<「石畳」で二十五年間ご指導たまわった>という。なるほど、素材の切り取り方、ことばの使い方に、森岡作品を継承するところがある。

 

泳ぎ疲れて帰り来たりて夕刊にシーラカンスが生まれてゐたり

 

「泳ぎ疲れ」「帰り来たり」と複合動詞を畳みかけ、三句で一転して「ユーカン」とたっぷり長音を使い、「シーラカンス」の「シーラカン」につなげる。上の句と下の句のつかず離れずぐあい。「疲れて」「来たりて」「生まれて」の「て」の反復。森岡貞香<今夜とて神田川渡りて橋の下は流れてをると気付きて過ぎぬ>(原作は旧字体使用 『百乳文』)を思い出す。

師の作風と、弟子の作風。二つの関係は謎である。弟子というものは、師に似てくるのか、それともあらかじめ自分と似たものを感じ取って師を選ぶのか。二十五年間の「指導」はそれとして、もともと新垣と森岡は感性の上で通じるところがあったのだろう。そんな印象をもつ。

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