黄の色の粒の光をひろいつつ手のひらをそっとのばす母子草

高橋みずほ『春の輪』(2012年)

 

母子草(ははこぐさ)はキク科の越年草。春の七草のひとつで、御形(ごぎょう、おぎょう)ともいう。茎と葉はビロードのような綿毛におおわれ、春から夏にかけて黄色いつぶつぶの花をつける。日本中に生えており、名前を聞いて形が浮かばない人も、どこかで目にしているはずだ。

 

黄色い房を寄せあって咲く頭状花のようすを、「黄の色の粒の光をひろ」っている、と歌はいう。「手のひら」は、密になって咲く花だろう。草に花が咲くとは、その草が手のひらをそっとのばして光を集めることなのだ。春の草花を、詩心たっぷりに捉えた。

 

こどものころの私は、近所の公園に生えている母子草を見るたび、草のなかに母親と子どもが住んでいるのだと思っていた。いまこうして一首の歌を見ても、結句の「母子草」という字面からは、草のなかに母と子とがいて、ともに手のひらをのばしている印象を受ける。この雑草の実物を知らない人も意識の隅で母と子を感じるはずだ。作者は効果を百も承知だろう。ことばのおもしろさ、ことばでものを作る楽しさである。

 

さて、このページは一首鑑賞であって、一冊鑑賞ではない。だが『春の輪』については、一冊ぜんたいについて触れないわけにいかない。手に取ってひらくと、冒頭、こういう歌が並ぶ。

 

夜空にひろげた換気の穴からとおく車の風の音

一層の風はぐように通り過ぐ一本の音の轍の

 

一首目は、5・8・4・7・5音、二首目は5・7・5・8・4音、と仮に切る。仮に、と書いたのはそれでいいのかどうかわからないからだ。最初にあげた母子草の歌は、5・7・5・8・8音と定型に近いが、一冊の中でこういう歌はむしろ少数に属し、大半はいわいる破調である。<北の祭りはゆきひらの舞うめぐりよりはじまりぬ>のように、7・7・5・5音とも、7・5・7・5音とも「仮に」切れる歌もある。これは四句の歌なのだろうか。

 

もしかしたら作者は一行の詩として作っているのかもしれない、と読みすすみつつ表紙を見なおしてみれば「歌集」と書いてある。一方あとがきには、韻律にかんすることは何も書かれていない。あたりまえの顔をして、作品はならんでいる。あるページには五首、あるページには四首、また三首、二首、一首、零首と、考えぬかれた構成の下すまし顔でならんでいる。狐につままれた、というよりパラレルワールドにワープしたような気分だ。

 

この世界と似ているようでちょっと違う世界がすぐ隣にあり、そこでは5・7・5・7・7に似ているようでちょっと違う歌が、集まって春の輪をぐるぐるまわしているのだ。

パラレルワールドの歌たち、といってみたくなる。

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