瓦礫の原に/三段くねり式の/電動こけしクマッコ1号が/一本 縦に在った

辺見庸『眼の海』(2011年)「電動こけし」冒頭部

 

津波と原発事故をもたらした震災から、あと二日で二年となる。短歌の世界には、震災を素材に歌を書いた人、書かなかった人、書きつづける人、いま書きはじめた人、これから書こうという人、これまでも今後も書くつもりのない人、さまざまな作者がいる。詩の世界はどうだろう。荒川洋治はこういう。

 

以下引用

大きな災害のあとで、大量のたれながしの詩や歌が書かれて、文学「特需」ともいうべき事態が生じた。

とくに詩のほうは、ただのおしゃべりのようなもので、表現の工夫も、その痕跡もない。平明でわかりやすいが、ただの自己主張に近いものだ。だがこの即席の詩らしきものは、ことがことだけに、誰も何も言えないのをいいことに増長、拡大。人々の求める方向に流されていったのである。呼応、支持する人は詩を書く人たちのなかにも多数いた。詩の雑誌も同調。翼賛的な空気もあった。(中略)

これは「詩の被災」であり、「ことばの被災」である。詩が、ことばが「被災」したのだ。

(『詩とことば』2012年 岩波現代文庫)

引用ここまで

 

辺見庸『眼の海』は、2011年の震災を背景に書かれた詩集だ。「たれながし」から最も遠い作品と評価されたのだろう、選考委員に荒川洋治を含む高見順賞を2012年に受賞している。

 

電動こけし

 

瓦礫の原に
三段くねり式の
電動こけしクマッコ1号が
一本 縦に在った
グィーングィーンと生きていた
専用ローションは沖に沈んでいる
ナヰと大波にもまけず
黒いクマッコは
グィーングィーンと ずっと
くねりつづけている
ピラピラとこきざみに動くべき
さきっぽの小さな舌は
大波で切れて
沖にながされ
鮟鱇にくわれた
舌なしのクマッコは
一本 ひとりで 口あけて
振動し くねりつづけている
高い線量のために
あんなにも木賊色になった    *「木賊」に「とくさ」のルビ
空の下でも ひとりで くねりつづけている

ゴイサギが飛んでいる
空は晴れ
海はいま
すっかり凪いでいる

 

辺見庸はジャーナリストにして、小説家であり、詩人でもある。実をいえば私はこの人の散文のよい読者ではない。書名が『闇に学ぶ』、『反逆する風景』、『記憶と沈黙』、『自分自身への審問』、『いまここに在ることの恥』など見るだけで気が滅入ってくるものばかりであり、文章を読めば説教されている気分になるばかりなのだ。しかし思いがけず、『眼の海』は気が滅入ることなく一冊を読了できた。

 

「電動こけし」一篇は、震災から二年を経たある海岸の風景と読むこともできるだろう。映画の一場面を思わせる風景だ。詩を読みつけない私のような読者にも、ことばはわかりやすい。「高い線量のために/あんなにも木賊色になった/空の下でも」などわかりやす過ぎるくらいだ。つまり説教めくわけだが、暗い気分になる間もなくすぐに「ゴキサギが飛んでいる」と話題が変わり、「海はいま/すっかり凪いでいる」と終わる。読者はほっとする。辺見庸はこれからもっと詩を書くのがいいのではないか。それから考える。たとえばこの詩で描かれたような風景が短歌で描かれるとしたら、それはどういう歌になるのだろう。
『眼の海』にはこういう一篇もある。

 

わたしは夜あなたの背に薬をぬる

 

さっくりと割れたあなたの背が夜つぶやく
割れ石が地下でつぶやくように
もうなにも言わないで
あなたの割れた背に夜 薬をぬりながら
わたしはささやき問う
おもうのはいいかい?
ザクロのように割れた背中に灯心が生え
弱々しくほのめく
ガラス窓のそとは黒い海
あなたの欠けた背がたゆたっている
鯨肉のように
千年たゆたう
わたしは今夜
あなたの割れた背に薬をぬりつづける

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です