「青春」は存在しない「老年」も存在しないましてわが「死」は

柏原千惠子『彼方』(2009年)

 

柏原千惠子は、1920年に生まれ2009年6月25日に死去した。

歌集の末尾、「二〇〇九年五月」の日付をもつ「あとがき」の中で、その一月後に世を去ることになる作者は「視力も極度におとろへて寝たきり状態で老人ホームにお世話になつてゐます」といい、「“あとがき”のあとがき」の中で、長女の三久潤子は「今年五月末頃に口述筆記でなんとか“あとがき”までたどり着きました」という。私は作者の死後にこの歌集と出会った。そしてその日から『彼方』は愛読書のひとつになった。

 

この人の歌はどれもいいが、ここでは三十一音で哲学する一首を読んでみたい。<わたし>にとって「青春」というものは存在せず、「老年」も存在せず、まして「死」は存在しない、と歌はいう。二句と四句で切れつつ、断定口調でたたみかける。短歌形式で述べているため、三十一音を使いきったところで終わるが、そうでなければ<ましてわが「死」は存在しない>と三回目の「存在しない」をいいそうな勢いだ。歌に使われることばは難しくない。表面の意味は明瞭だ。けれど、「青春」や「老年」や「死」が存在しないとはどういうことか。

 

<わが「死」>が存在しないというのは、ギリシャの哲人のことばを引くだろう。私は池田晶子(1960-2007)を思った。自分が自分であることは何なのだろう、と思っているその自分とは何なのだろうという、昔から哲人たちがしつこく考えてきたことを引き継いで考え、くりかえし日本語で述べた文筆家。「死」というものはない、ことについて池田はこう書く。

 

以下引用

「自分が死ぬ」ということは、いったいどういうことなんだろうか。(中略)

もし自分がないなら、そこには自分はないのだから、「自分がない」と考えている自分もないはずだね。(中略)自分がないということを考えることができないということは、ひょっとしたら、自分は死ぬことはない、自分は死なない、ということなんじゃなかろうか。(『14歳からの哲学』2003年 トランスビュー)

引用ここまで

 

「自分がないということを考えることができない」という状態を想像しようとすると、頭のなかがこんがらがってくるが、しつこくやっているうちに納得できる気もしてくる。いずれにせよ、歌の結句<わが「死」は>存在しない、は上のようなことをいっていると読む。<「青春」は存在しない>の方は、自分が人生のある時期を「青春」ということばで認識しなければ「青春」はない、ということだろう。短歌によく出てくる「わが青春期過ぐ」など情緒過多フレーズへの批判とも読める。<わたし>は「青春」などという規制概念語で自分を捉えたことはなかった、という自負。世の中でいわれる「戦争中だったから青春などなかった」という話とは違うだろう。「老年」の不在についても、「青年」の場合と同様だ。

 

人間はことばによって世界を認識する。ことばによってものを考え、ものごとを認識する。それが生きてゆくことなのだと、歌は伝える。

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