あるいはそれは骨を握れることならむ手を繋ぎつつまだ歩いてる

生沼義朗(おいぬまよしあき)『関係について』(2012年)

 

大切な人と手をつないで歩く。

浮き立つような恋の歌だ。ただし、ことばは少しも浮き立っていない。というより、さめている。いや、さめているように見せようとしている。見せよう、見せなくては、と力が入る。入るあまり、「あるいはそれは」などと評論文のように詠い起こしてしまう。「あるいはそれは」とくれば、続くのは「作者一流の韜晦かもしれない」のような文章だろう。甘い恋の話を引きだす措辞ではない。音数だって7音もある。「あるいはそ/れは骨を握れる」と5・9音で切るか、「あるいはそれは/骨を握れる」と7・7音で切るか。いずれにせよ字余りだ。

というようなことを、「あるいはそれは」に感じる。<わたし>の照れをユーモアまじりに表現してみました、そこんとこよろしく、という作者のメッセージを受け取るのである。

 

あるいはそれは何だというのだ、と読み進めば「骨を握れることならむ」だという。「骨を握れること」は、「握るのと同じことの」の省略表現だろう。下の句「手を繋ぎつつまだ歩いている」。骨は恋人の手の骨だという。なるほど、手を繋ぐつまり握ることは手の土台である骨を握ることともいえる。恋人の手を握りながら、肌触りや肉の弾力や体温などでなく、骨を握っていると感知する。意表をつく「恋人との手つなぎ」像だ。これもひとつの「照れ」の表現と読みたい。<わたし>の本心は、嬉しくて仕方がないのだ。やわらかい手だなあ、気持いいなあ、いつまでも握っていたいなあと思う。やったね、おれ! と叫びたい。だが抑えに抑え、骨を握っているようだ、などといってみせるのである。

 

初句「あるいはそれは」は、「あるいはこれは」とする手もある。作者は「それは」を選んだ。

あるいはそれは骨を握れることならむ  (原作)

あるいはこれは骨を握れることならむ  (改作)

「これは」に比べ「それは」は、対象と距離を取った表現だ。いままさにここにある、というニュアンスがない。「これ」と「それ」の違いは、2月23日の「一首鑑賞」で紹介した光森裕樹<さしだせるひとさしゆびに蜻蛉はとまりぬ其れは飛ぶための重さ>に通じる。

 

あるいはそれは骨を握ることだろう、と<わたし>は思う。さっきから手をつないで歩いている相手と<わたし>は、まだそのまま歩いている。一首はこのようにいう。

 

ひとつだけ歌に文句をつけるとすれば、一首独立で読んだ場合、手を繋ぐ相手が誰なのか特定できないことだろう。衰弱した人を介護する歌とも読めるし、幼いこどもと歩いているとも読める。とはいえ、一連8首の中で読めば、相手が恋人であるのは明白だ。一連にはこういう歌がある。

徒手空拳の車中ありたり、持ち物の電池がなべて切れてしまえば

人混みに名を呼ばれたり何処よりの声か判らずまずは振り向く

小題はズバリ「握る」だ。<わたし>の幸せをよろこんでやってくださいね、という作者の声を聞くのである。

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