夕づけるリア・ウインドウ曇りゆく運転の妻と我との息に

石本隆一『花ひらきゆく季』(2010年)

 

石本隆一は、1930年12月10日に生まれ、2010年の3月31日に79歳で死去した。歌人が世を去って、もうじき三年となる。

 

夕ぐれどき、妻と<わたし>は車に乗っている。運転席の妻と、助手席の夫。ふたりは共に前方へ顔を向けているのだが、運転に集中する必要のない<わたし>は、バックミラーの中でリア・ウインドウが少しずつ息で曇ってゆくのを見ている。外気が冷えてきているらしい。

日没ちかい密室の中にいる男と女。二人の息で曇ってくる窓。官能の匂いただよう一首だ。

 

<夕づける/リア・ウインドウ/曇りゆく/運転の妻と/我との息に>と、5・7・5・8・7音で切って、三十二音に仕上げた。

初句の「夕づける」は、下二段動詞「夕づく」(連体形は「夕づくる」)ではなく、名詞「夕」に、四段動詞となる接尾語「づく」と、助動詞「り」が付いたものだろう。古典的なことばを「リア・ウインドウ」というカタカナ語につなげる面白さ。ただ、上の句は「リア・ウインドウ」を二つの動詞が「夕づける」「曇りゆく」と上下から鋏んでおり、ややもたつく。仮に「夕ぐれのリア・ウインドウ曇りゆく」と動詞を一つに絞れば、すっきりする。むろん、作者は承知のはずだ。その上で、「夕ぐれ」などより「夕づける」の語感の美しさを取ったのだろう。

 

意味の上では、三句で切れる。下の句「運転の妻と我との息に」は、本来「曇りゆく」の前に来ることばだ。だが、倒置をせずに<夕づけるリア・ウインドウ運転の妻と我との息に曇りゆく>とすると、ぎくしゃくしてしまう。

 

この歌では女が運転しているのだが、もしも運転手が男の方だったらどうだろう。

 

夕づけるリア・ウインドウ曇りゆく運転の妻と我との息に  (原作)

夕づけるリア・ウインドウ曇りゆく運転の夫と我との息に  (改作)

 

運転手が男の場合、一首の官能性が大いに失われる。私はそう感じる。

「夕づける」という静かな詠いおこし、四句8音を含むゆるやかな韻律、曇ってゆく窓に注がれる視線などは、助手席の夫があるいは肉体的に弱った状態にあるのではないか、ということを思わせる。女に運ばれる男、庇護される男というイメージ。そしてそのイメージは、たとえば絶命のイエスを抱くマリア像などと重なり、官能の匂いを五句三十二音に引きこむのである。