華やぎのいまだ残れる西空に一揆のごとくわがゆかむとす

高嶋健一『草の快楽』(1982年)

 

高嶋健一は、1929年の今日4月4日に生まれ、2003年の5月18日に死去した。

夕焼け賛歌である。さきほどまで夕焼けが赤く華やいでいた空は、いましずけさを取りもどしつつあるが、まだ華やぎのいくぶん残る西の空へ、一揆の蜂起集団がなだれこんでいくように<わたし>は向かっていこうとする、という。「一揆のごとくわがゆかむとす」は<わたし>のこころの風景と読む。ことばのダイナミックさとは裏腹に、歌の場面は、夕焼けの残る西空を見て一人の男が立っているだけのスタティックなものだ。<わたし>は残る、こころは空へ駆けてゆく。

 

<華やぎの/いまだ残れる/西空に/一揆のごとく/わがゆかむとす>と、5・7・5・7・7音に切れる、三十一音の端正な一首。「華やぎ」に「一揆」をぶつけたところが、眼目だ。夕焼け賛歌という、短歌の定番中の定番を扱うに当たり、作者は趣向を凝らした。

 

一揆とは何か。百姓一揆、島原一揆、血税一揆、などということばが浮かぶ。圧政を受ける側のプロテスト、武装蜂起。「一揆」という語が、「暴動、争議、事件」などの語に取ってかわられたのは、文明開化以後のことだろうか。昨今の「一揆」は、もっぱら歴史の教科書の中でお目にかかることばとなった。いま上に「蜂起集団がなだれこんでいくように」と書いたが、「一揆」はふつう複数の人間が行う。歌ではそれを<わたし>一人が行う。そこが、おもしろい。目にみえない仲間とともに、あるいは複数の<わたし>とともに西空へゆくのだ、というニュアンスが生まれる。初句「華やぎの」と優雅に入り、「一揆」などという語へつなげてゆく展開の意外さ、あざやかさ。「ハナヤギ」「イッキ」と脚韻を踏んでいるのも、偶然ではないだろう。

 

やはり歌はうたいあげるとサマになるな、と一首を前に思う。「一揆のごとくわがゆかむとす」の格好よさ。平たくいえば「いいな、きれいだなあ」ということを、こう表現する。しかし二十世紀が去ったいま、実作者の身としては、ここまでうたい上げることは気恥かしい。やりたくても出来ない。二十一世紀初頭の気分は、永井祐風にいうなら<華やぎがまだ残ってる西の空  ぼくはこっちだからじゃあまたね>というようなものに近いだろう。うたいあげオーケーの時代に歌を作っていた人たちがうらやましい。

 

と、ここまで書き、恵与していただいたばかりの「早稲田短歌」42号を見ると、永井祐のインタビューがあり、聞き手の綾門優季が永井について「江戸時代にワープしても一揆とかには参加しないだろう、というイメージ」と述べている。期せずして「永井」「一揆」のセットに出会う。「一揆と無縁な人」から永井を思うか、永井から「一揆と無縁な人」を思うか。連想の向きは逆だが、いっていることは同じだ。永井には一揆(と無縁なこと)がよく似合う、といいたくなる。

 

さて、『草の快楽』は「くさのけらく」と読む。福永武彦の小説に『草の花』というのがあったが、花ならぬ草の快楽とは、どのようなものだろう。想像力に訴えてくることばだ。また、目次にならぶ小タイトルを見るだけで、一篇の詩を読むような気分になる。

密約
音たてて
清浄のひかり
耳目

安息
アルカイックスマイル
救抜のこころ
額垂れて
殺意のごとき
解説に目を移せば、「浸透と飛翔」と題された一文の書き手は小川国夫だ。発行所は不識書院。

というアウトラインから、歌集のたたずまいを想像していただけるだろうか。高嶋ワールドを象徴するような一行が、上に掲げる歌なのである。