寄るべなき思ひにひらく枕絵の火鉢に赤く炭は燃えをり

内藤明『夾竹桃と葱坊主』(2008年)

少年の頃、祖父母の家に陶器の丸火鉢があったのを覚えている。火箸や灰が入っていた記憶があるが、炭を燃やしていた記憶がない。祖母はヘビー・スモーカーだったので、或いは灰皿代わりに使っていたか。いまは、ガスにしても石油にしても、炎の見えないヒーターが主流で、石油ストーブさえ少し珍しくなってきた。

枕絵は春画ともいうが、男女の情交を描いた浮世絵のこと。もともと一枚絵よりも帖仕立になったものが多かったというが、ここでは美術書か図録の頁をひらいてみたということだろう。文庫や新書にも春画や枕絵について解説したものがあるが、少し版の大きい堅い表紙のものを思い浮かべたい。以前手に入れて、書架にならべていたその本を何となくひらいてみた、と。

寄るべなき身の上、というと具体的な深刻さが付きまとうが、「寄るべなき思ひ」というのはもう少し淡い。なんとなくもてあましたような感情の屈託、とでも言おうか。この「寄るべなき思ひ」と枕絵の取り合わせがなんとも絶妙である。

他人の性愛に関することは、若い頃には激しい興味の対象だったりするし、聞き手のコンディションによっては、なかなかやるじゃないか、と刺激をもらう場合もあるけれど、ある年齢を過ぎると、そして少し気が弱っているときなどはとくに、少少鬱陶しく感じられるものだ。これが現代のポルノグラフィーだったら「寄るべなき思ひ」にひらくことはしない。デフォルメされた江戸の男女が絡み合う姿はエロティックであると同時にどこかお目出度い感じがする。背景に描かれた火鉢の炭の方が妙にリアルだ。その炭の赤さは、遠い世の男女の情熱を代弁しているかのようでもあって、「寄るべなき思ひ」は、寄るべないなりに束の間ほほ笑むのだ。

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