にんげんとなりたるか傘さしてくる鉄の眼鏡をかけてアトムは

渡辺松男『歩く仏像』(2002年)

 

明日4月7日はアトムの誕生日だ。

アトムって誰? と聞くような人はこのページの読者にはいないと信じるが、いわずと知れた鉄腕アトムである。天馬博士が亡き息子の代用に作った十万馬力のロボットにして、ウランの兄。手塚治虫作品の主人公にして、日本の一時代を代表する漫画キャラクター。「鉄腕アトム」は日本初のテレビアニメとして、1963年から1966年まで放送されており、雑誌掲載の漫画は見なかったがテレビでアトムと親しんだという人は多いだろう。アトムの生誕地高田馬場にある山手線高田馬場駅では、2003年から電車の発着時に「鉄腕アトム」テーマ曲のメロディーが流れている。

 

ロボットのアトムが、ついに人間となって歩いてくるのを目撃した、と歌の語り手はいう。人間となったアトムは、傘をさし、鉄製の眼鏡をかけていた。韻律の上では、<にんげんと/なりたるか傘/さしてくる/鉄の眼鏡を/かけてアトムは>と、5・7・5・7・7音に切れる。意味の上では、<にんげんとなりたるか。傘さしてくる。鉄の眼鏡をかけて。アトムは>と、三カ所で切れる。三句以降は、倒置に継ぐ倒置だ。ずいぶんと凝った作りである。初句の、単刀直入な行き方にも注目したい。こういう場合、凡手はつい「いつのまに」「いつしらに」などを付けてしまうものだ。

 

「にんげんとなりたるか」以下の部分は、素直な語順でいけば「アトムは鉄の眼鏡をかけて傘さしてくる」となるだろう。定型にはめこむために、最小限の語順入れ替えを仮に試みれば、<にんげんとなりたるか鉄の眼鏡かけアトムは傘をさしながら来る>となる。だが、作者はこんな形では満足しない。

にんげんとなりたるか鉄の眼鏡かけアトムは傘をさしながら来る  (改作)

にんげんとなりたるか傘さしてくる鉄の眼鏡をかけてアトムは    (原作)

 

原作の方が、ぐっと「ヘンな感じ」がかもし出される。にんげんとなりたるか。何が? 傘さしてくる。何が? 鉄の眼鏡をかけて。だから何が? アトムが。

何しろ、ロボットが人間になったのだから、ことばの方もこのくらいヘンな感じでなければいけない。ヘンといえば、「鉄の眼鏡」もおかしい。生まれつきの人間は、ふつう鉄の眼鏡なんて掛けない。チタンでもニッケル合金でもない鉄の眼鏡をかけるのは、元ロボットならでは、というより元「鉄」腕ならではというべきか。もしもあなたが鉄の眼鏡をかけている人を見かけたら、その人はロボットの生まれ変わりかもしれない。

 

いや、アトムが人間になったのではない、くせ毛の男をアトムに見立てたのだ、という意見もあるだろう。アトムのヘアスタイルは手塚治虫自身の寝癖髪がモデルだという説を思うまでもなく、その読みも成立する。だが、そう読んでも楽しくない。やはりここは、アトムが人間になったと読みたい。そもそも、作者はアトムに思い入れがあるはずなのだ。というのも、「鉄腕アトム」放映当時、1955年生まれの渡辺松男は8歳から11歳という年齢であり、その時期に出会った物語の主人公は、生涯の心のヒーローとなる可能性が高い。たとえば作者と同年生まれの私にとって、アトムは生涯の心のヒーローだ。小学生の私は「ロボットになりたい、アトムみたいに飛びたい」といつも思っていた。出会う時期がこれより数年、前か後にずれていたら、そう思わなかっただろう。こども時代の二、三年は大きい。1955年生まれの人間にとって、アトムは問答無用の存在だ。

人間になれたら、たぶん喜んだと思われるアトム。渡辺松男は、こどもたちのヒーローの願いを歌のなかでかなえてやったのである。