温室のドームの屋根につかえたる椰子の葉二枚がふれている青

井辻朱美『コリオリの風』(1993年)

*「椰子」に「やし」のルビ

 

温室に椰子があるのだから、ここは南国ではなく、椰子などの育つ温室があるのだから、ときはジュラ紀ではない。季節はいつだろう。冬かもしれないし、夏かもしれない。または春。または秋。

いずれの季節かの、ある晴れた日。ドーム型の屋根をもつ温室を訪れた<わたし>は、椰子の木のまえで足をとめる。大きな椰子だ。何本もの葉を盛大にひろげている。この椰子はどのくらい高いのだろうとふりあおいだ瞬間、目に飛びこんでくるのは青空だ。ガラスの屋根の向こう、視野いっぱいに青空の青が広がっている。その手前で、屋根につかえている椰子。一本の軸から左右に何枚も生えた細長い葉のうちの、いちばん高いところにある二枚が、ガラスの天井を押しあげている。

 

隔離された場所でなければ生きていけない者のかなしみと、外の世界へのあこがれとを、一首は伝える。私はアリゾナの砂漠に作られたバイオスフィア2を思った。人類が宇宙に移住する未来を想定し、自給自足生活を試みるためのに作った巨大な密封空間すなわちガラス張りのドーム建築。1991年に始まった実験は「2年交替で科学者8名が閉鎖空間に滞在し、100年間継続される予定であったが、実際には最初の2年間で途切れてしまった」(ウィキペディア)ようだけれど、その最初の2年間に撮影された写真が、たまたま私の手元にある。写真集と小説を合体したような本になっているのだ。

 

本のタイトルは『やがてヒトにあたえられた時が満ちて……』(文・池澤夏樹 写真・普後均 河出書房新社 1996年)という。砂漠のなかに立つ白いドームの写真、ドーム内から仰ぐ青空や夕空の写真など、さまざまな風景が収められるなか、最も印象深いのは、ドームの外壁に顔を押しつけて内部を覗きこむ水着姿の男女を、ドーム内から撮ったショットだ。内部を覗くヒトの姿は、いつか移住先の星でドームの中から外の世界を覗くだろうヒトの姿と重なる。ガラス一枚で互いに隔てられた世界。

 

下の句「椰子の葉二枚がふれている青」の「葉二枚」は、人間の二本の手を思わせる。ドームの中で育ちきり、外へ行きたいと願う人間。それは近未来のヒトの姿に通じる。どこかの星に置かれたドーム内から外の世界へ行きたいが、出ることは死に直結する。どこかの星は、空気汚染された地球かもしれない。一見のどかな情景の中に、怖さをひめた歌だ。

 

三句の「つかえたる」が、以上のような読みを引き出した。もしもことばが「温室のドームの屋根にとどきたる」だったら、読みはずいぶん違ったものになっただろう。

 

『コリオリの風』は、『地球追放』『水族』『吟遊詩人』に続く、井辻朱美の第四歌集だ。「この本をよむひとりびとりが、そのひとの“はるかなとき、とおいところ”の中へいざなわれてゆきますように」とあとがきに作者は書いている。