前川佐重郎『不連続線』(2007年)
骨盤の大き女とすれちがひ思ひなほして大股にゆく
少年はこの一年を他人(ひと)となり楷書のやうなことばをつかふ
中空(なかぞら)に黒蝶ふたつとどまりてわれにも盛夏きたりとおもふ
狼藉はつねなつかしき姿して夜の電柱にゆまりする人
いつせいに傘さしはじむる歩行者のどこに隠してゐたのかカサは
にんげんの姿あたらし赤子はや夕陽にむかひ影を曳きをり
喉仏つひに大きく固くなり少年はいま緑をよぎる
向日性というと安易かもしれないが、前川佐重郎のものごとへの向き合い方の積極性は、日々の生活のなかから、人の、特に過去から現在へ、現在から未来へ向かうありようを受け止める、その精神の明るさとして読者に届いてくる。謙虚さといってもいいだろう。日常の多様な断面を横切りながら、木々の芽吹きのような、そんな気配を拾っていく。謙虚さとは、受け止める力。受け止め、風景の価値を可視化する力。
ふり向いて影たしかむる坂道にひと日のわれと俺とが出会ふ
上り坂だろうか、それとも下り坂だろうか。どちらであっても、「ひと日のわれと俺とが出会ふ」というフレーズのイメージが崩れることはない。上り坂が、あるいは下り坂が通常担うであろう意味から離れ、生活の現場のひとつの場所として、「坂道」はある。だから、上り坂であっても下り坂であっても構わない。前川は、ことばに不要な、あるいは過剰な意味を担わせない。だから、ことばが十全に働く。
「ひと日のわれと俺とが出会ふ」。「ひと日の」とは、ひと日を過ごしたという意味。過ごしたという記述はなされていない。だから、きょうを肯定することができ、明日を豊かに予感することができるのだ。「われ」と「俺」は、建前と本音といったら詰まらなくなってしまうが、社会で生きていくうえで必要な振る舞いの複数のありようをいっているのだろう。こうした主題も、前川は爽やかにことばにしていく。そう、前川自身が、木々の芽吹きのような気配を内包しているのだ。