羆の身ゆるりと返りこなた向く花の散り込む檻の片隅 

小林サダ子『廻廊』(2011年)

*「羆」に「ひぐま」のルビ

 

ヒグマは食肉目クマ科。ものの本によれば、アラスカに住むアラスカヒグマは、体長2.8m、体重400kgに達する。日本では北海道にエゾヒグマがおり、体長2m、体重250kg内外で、400kgを越えるものもある。いずれも強大な力をもち、ホッキョクグマとともに地上最大の食肉獣だ。

 

歌の羆は、日本の動物園に住む。生まれがどこかは不明だが、「ゆるりと返」るその身は、ゴリラやオランウータンには太刀打ちできぬ貫録だろう。「ゆるりと返りこなた向く」が、さりげないようでいて上手い。「羆」の画数多く黒っぽい字面から、ひらがなの多用によるやわらかさへ移る、視覚的な間合い。「こなた」という古語の採用。平明なことば遣いで、読み手の前に羆の姿をありありと立たす。

 

下の句「花の散り込む檻の片隅」は、季節と場所を過不足なく伝えて、一首に臨場感を与える。「花」すなわち桜が、満開のときをすぎて風の中に散りはじめている。「檻」があるのだから、ここは動物園だ。人里離れた林道で羆に出くわしたのではない。桜の散りこむ檻の片隅にいて、見物人の<わたし>の方にゆっくり向きなおる羆。主観語を排して対象の描写に徹しつつ、作者はことばに思いを織りこんでいる。

 

その思いとは、せんじつめれば生の無常ということになるが、読み手によって重ね合わせるものはさまざまだろう。私は、1996年にロシア・カムチャッカで羆に殺された星野道夫を思った。羆の生態を知りつくしていたはずの写真家が、羆の出没地に自分の判断でテントを張り、食い殺された。当人に悔いはなかったはずだ。そう思いたい。そんな人食いの羆が、いま歌の中では動物園の檻にいて、散りこむ桜のむこうから人間を見ている。

 

小林サダ子という名前に、私はまず玉城徹著『左岸だより』(短歌新聞社 2010年)で出会った。玉城の歌集『香貫』を読む会において、へんくつで知られる玉城に、出席の女性達がいわゆるタメ口をきいており、小林もその「うらやましいなあ」といいたくなる出席者の一人だった。たとえば、「風やみて白さるすべりかげふかく舗装の面に花の一ふさ」(「面」に「めん」のルビ)をめぐり、このようなやりとりが展開される。

 

以下引用
小林 「影ふかく」っていうのは、枝にあるさるすべりの影だと思うんですけども、
玉城 そうだろ、
小林 それでひょっと見たら地上に風によって吹き千切られた花もおっこっていた。
玉城 それで、それがどうだって?
小林 うーん、その作者の心は、それを捕えた。
玉城 判らないなあ、そのいいっていうのは、何のこと?
小林 光と影の関係で、よく見えるの私に、この作品を見ると、
玉城 そんなことはどうでもよい。見えようが見えまいが。(中略)
小林 「舗装の面に花の一ふさ」ってどうしてこういうような表現が出て来たのかなと思って、
玉城 そんなことはどうでも良い、
小林 だって、そう言われると判らなくなっちゃうわ。
引用ここまで

 

『廻廊』のあとがきに、作者は「或る時歌人玉城徹の言葉が怖しい破壊力をもって私を打ちのめしたのである。その時の衝撃を受けそこなっていたら今日の私は在り得なかったと思う」と書く。この人が、雨あらしと降ったであろう「そんなことはどうでもよい」もまたしっかり受けとめたらしいことは、上に掲げた歌がおのずと伝える。