後ろより誰か来て背にやはらかき掌を置くやうな春となりゐつ

稲葉京子『宴』(2002年)

 

稲葉京子の最初の歌集『ガラスの檻』(1963年)には、たとえば次のような作品が収められている。

 

花の白満つる庭ゆゑにくきものも傷つけぬまま帰してしまふ

春嵐つのればさびしわれよりも若き腕(かひな)のうちにめざめぬ

風見鶏しづかに止まれ逡巡ののち深き知恵得たりしやうに

 

情と理のバランスというと違うような気もするが、ある安定感をもった韻律の作品。まだ20代の、しかし確かに20代の、清々しい抒情が魅力的だ。

『宴』は、その約40年後に刊行された一冊。

 

人はみなおのれにふさふなにがしの風を曳きつつ擦れ違ふらむ

病名は一つにあらずかうなれば恋をして行けるところまで行く

天に昇りしはなびらわれにこぼれ来るこの祝祭を誰に告げむか

 

清々しい抒情は、稲葉の変わらない魅力である。それは経験の積み重ねに保証されている。年を取ったという意味ではない。20代には20代の、またそれぞれの年代にはそれぞれの年代の経験がある。その経験を、いわば経験の核ともいえるものを、稲葉は自身で把握し、そこから作品を組み立てているのだろう。だから、経験そのものや価値観に異なりがあっても、読者のなかにすっと入ってくるのだ。

 

後ろより誰か来て背にやはらかき掌を置くやうな春となりゐつ

 

旧かなが美しい一首だ。とくに結句の「ゐつ」は、「つ」の鋭い響きを内包しながら、やわらかくしなやかな印象を一首に与えている。

初句から四句までが比喩。しかし比喩でなく、ほんとうに誰かが掌を置いてくれた、そんな錯覚を起こしてしまう。それが心地いい。初句はゆったりと、二句は「3・2・2」で足早に、三句はまたゆったりと。こんなリズムの変化が、それを助けている。うまいなあ、と思う。

私たちは春の訪れを待っている。梅が咲きはじめると、まだまだ寒い日が多いけれど、なんだかうれしい。まだ咲いていない桃や桜の花を思い、それらを包むひかりを思う。春の気配を感じると、時間が急に動きはじめたようで、ついつい前のめりになってしまう。しかし春は、そんな私たちの背後からゆっくりとやって来る。

 

編集部より:稲葉京子歌集『宴』はこちら↓

http://www.sunagoya.com/shop/products/detail.php?product_id=159