会ふ人の皆犬つれし小公園吾が曳く白狐他人(ひと)には見えず

富小路禎子『芥子と孔雀』(2002年)

 

わが垣に古傘一つかかりをりよき神ならばしばし住みませ

薬局の奥よりひそと笑ひもれ渡されたるは媚薬ならぬか

スクランブル交叉点の真中今ならばわが世(よ)何方(いづかた)へもゆけると思ふ

芥子の毒ついばみて夜昼羽開く孔雀は現世(よ)を超え剥製となる

吾の下りし終着駅がすぐ始発駅に新婚夫婦華やかに発つ

 

富小路禎子は、独断によって作品をつくっていく。むろん、それは当然のことだ。私たちは誰も独断で作品をつくる。直感といったほうが理解されやすいだろうか。他者と切断されたところから作品はつくりはじめられるということ。しかし、富小路のそれは度合いが高い。

私たちは他者との関係の網のなかで生きている。常識、あるいは非常識ということばがある。前者は関係の網を肯定する、後者はそれを否定する、そんなことばだ。ただいずれも、関係の網に対する構えのありよう。富小路は、関係の網に対して構えを取らない。だから、垣にかかった古傘とよき神が接続し、薬局の奥よりひそともれた笑いと媚薬が接続する。他者との関係の網とは別の網が、富小路から広がっている。それが富小路の個性を形づくり、読者を納得させる。

 

会ふ人の皆犬つれし小公園吾が曳く白狐他人(ひと)には見えず

 

一首の内容はとてもわかりやすい。ここでの白狐は、稲荷神の眷属である神獣と理解していいだろう。

とはいえ、不思議な情景だ。「会ふ人の皆犬つれし小公園」。出会う人がみんな犬を連れているのだ。それが何人なのか、何匹なのか具体的にはわからないが、街区公園──いわゆる児童公園のような小さな公園だろう、そこに犬を連れた人ばかりがいる。確かにそういうことはあるかもしれない。しかし、犬を連れていない人が、おそらく富小路には見えていないのだろう。だから、「会ふ人の皆犬つれし」というのだ。

一見すると、「白狐他人(ひと)には見えず」が一首の主題と思われるが、「会ふ人の皆犬つれし小公園」がほんとうの主題なのではないだろうか。つまり、富小路の視覚のありよう。他人(ひと)には見えるが、富小路には見えない、そんな視覚。

ところで、富小路には見えていない犬を連れていない人に、白狐は、そして富小路は見えているのだろうか。