三五夜の月、窓に来てひんやりと照らす天上寺仏足石文鎮

高野公彦『青き湖心 般若心経歌篇』(2013年)

*「三五夜」に「さんごや」のルビ

 

歌集の前書に「本歌集は、般若心経の経文を一字づつ頭に置いたアクロスティック作品である」という。制作日数丸二年。題ならぬ文字を詠みこむのは、「文字詠」と呼ぶらしい。「単行本あとがき」によれば、全作品237首は、すでに『高野公彦作品集』(本阿弥書店 1994年)と『高野公彦歌集』(短歌研究社文庫 2003年)に「般若心経歌篇」として収録されているが、「このたび運よく毎日芸術賞を受賞したので、それを記念し、初めて単行本として刊行」された。『青き湖心』と歌集名が付けれられ、十一の章に分けられ、章タイトルが付けられた。なお、毎日芸術賞受賞は歌集『河骨川』(2012年)による。

 

ことば偏愛者高野公彦の本領発揮というべき237首だ。般若心経の全文字を詠みこむなどという物好きな作業は、ことばフェチでなければ到底やる気が起きない。経文には、たとえば「呪」が何度も出て来るから、「呪」で始まる歌をいくつも作らねばならない。脳味噌に汗をかくことになる。

呪ひの「あびらうんけん、そはか」言ひて灸据ゑ了へし母の白き腰

呪師が虚空で舞つてゐるやうな、さくらを散らしゆく風の脚    *「呪師」に「のろんじ」のルビ

呪符として女人の写真ふところに秘めて空飛ぶ空のまほらを    *「呪符」に「じゆふ」のルビ

 

「不」も頻出文字だ。<不器男夭死。白藤、白魚、川蟹の白きむくろを詠みて夭死す>(「不器男」に「ふきを」の、「白魚」に「しらを」のルビ)のような歌は、こういう機会でなければ、高野公彦の中から出てこなかっただろう。初句でいきなり「不器男夭死。」である。

 

制作後二十年を経て、単行本の形にするというのは、作者のことば偏愛ぶりを伝える。むろん、作品に手を入れずにはいられない。当人は「刊行に当たつて推敲を加へた歌もある」とさりげなくいうが、真に受けてはいけない。どのくらい推敲したのか見てみると、ルビや句読点の変更を含め、237首中の41首、じつに二割弱の作品が形を変えている。上に掲げた一首も推敲を加えられた作だ。

 

A 三五夜の月、窓にゐて天上寺仏足石文鎮をひんやり照らす  『高野公彦歌集』収録版

B 三五夜の月、窓に来てひんやりと照らす天上寺仏足石文鎮  『青き湖心』

*二首とも「三五夜」に「さんごや」のルビ

 

歌意はA、Bとも変わらない。三五夜すなわち陰暦8月15日の名月が、<わたし>の窓辺に置いてある天上寺の仏足石文鎮を照らしている。天上寺は神戸市灘区摩耶山の寺。仏足石の文鎮を売っているのだろう。<わたし>が買ったのか、土産物なのかはわからないが、いま文鎮はおそらく机の上に置かれている。「三五夜」と「天上寺仏足石文鎮」の取り合わせが眼目だ。

 

AからBへ、何が変わったか。語順、そして韻律だ。

Aは、<三五夜の/月、窓にゐて/天上寺/仏足石文鎮を/ひんやり照らす>
と5・7・5・11・7音に切って、三十五音。

Bは、<三五夜の/月、窓に来て/ひんやりと/照らす天上寺/仏足石文鎮>
と5・7・5・8・10音に切って、三十五音。

 

さて、ここで下の句の韻律について考えてみたい。本来十四音の下の句が字余りになった場合、音数を四句と結句にどう振り分けるか。AB歌の下の句は、どちらも十八音ある。作者は、Aを作った時点では、下の句を11・7音に振り分けた。ほぼ二十年後に推敲し、8・11音に変えてBとした。こちらの韻律の方がいいという判断だ。

 

これまで参加したさまざまな歌会で、私は二つの説を聞いてきた。一つ、四句はふくらませてもいいが、結句は7音で締めよという説。結句が締まってこそ短歌、という考えだ。この説でいけば、Aの11・7音がいいことになる。もう一つは、四句は7音にして、結句をふくらませよという説。結句はそこで終わるとわかっているのだから、どこで切ればいいのか読者を悩ませることがない、という考えだ。こちらの説は、8・11音をよしとするだろう。高野が取るのは、二つ目の説ということになる。

結句は7音を守るか、それとも膨らませるか。正解はない。どちらが正しいということはない。それぞれの短歌観、韻律観があるのみだ。短歌において、ルールは、作者おのがじし作るものなのである。

あなたは、A、Bどちらの韻律がいいと感じるだろうか。