今われは都市の貌(かほ)して足早に群れの流れの中に融け行く

玉井慶子『黙契の譜』(2008年)

 

「二歳から鎌倉に住んでいる私にとって、鎌倉とは私の歌を育て、ひいては私自身を育てた土地との思いが深い」。玉井慶子は歌集『黙契の譜』の「あとがき」にこのように記す。「私の歌を育て、…私自身を育てた土地」という記述のしかたに着目したい。つまり、育ててくれた、と書かれていないということ。ここに、玉井の鎌倉に対する思いの確かさがあるのではないか。それは、鎌倉との距離の取り方。鎌倉に対する敬意が、一定の距離を取らせるのだろう。

 

夜の山の静寂破る意志固くつらぬくあれは小綬鶏ならん

たぢろぎの気配一瞬きざすとも象(かたち)なさねば気付かざるなり

発声の直前にして何がある一山(いちざん)しんと耳を立てゐつ

鎌倉の空気は甘(うま)し形なきものの象を胸ふかく吸ふ

春潮を逆三角に切り取りし山峡の左右(さう)さくら湧き出づ

湯上りのごとき弥生の大気吸ふ紅梅よけれ遠景もまた

あきかぜの色目分かたぬ段葛よぎる作務衣の木の葉色かな

 

玉井は風景を穏やかさとシャープさとをもって切り取っていく。このバランスのよさが、読者の心を開くのだと思う。

 

今われは都市の貌(かほ)して足早に群れの流れの中に融け行く

 

「都市」は、「鎌倉」の対として選ばれたことばだろう。しかしここには、優劣や大小といった比較はない。

この「都市」はどこだろう。鎌倉に近いということでいえば、横浜だろうか、東京だろうか。「都市の貌(かほ)して」。素材としての都市は、横浜かもしれないし、東京かもしれない。しかしこの「都市」は、都市なるもの、つまりそのありようのことではないだろうか。だからもしかしたら、それは鎌倉なのかもしれない。鎌倉がもつ都市性。そして自らのなかにあるそれ。

「都市」は「鎌倉」の対として選ばれたことば。しかし同時に、「鎌倉」は「都市」を抱え込んでもいる。だから鎌倉は、大きく豊かなのだ。

「足早に群れの流れの中に融け行く」。都市は人やものや情報が行き交う場所。人やものや情報の群れが流れをつくっている。そのなかに融けてゆくこと。それは、肯定の意志。玉井のしなやかさだと思う。