白藤の花にむらがる蜂の音あゆみさかりてその音はなし

佐藤佐太郎『群丘』(1962年)

*「白藤」に「しろふぢ」のルビ

 

藤の花とベーグルの時季となった。私は何時も藤の花が咲くとこの歌を思い出す。佐太郎作品のなかで一番好きな歌でもある。<白藤の/花にむらがる/蜂の音/あゆみさかりて/その音はなし>と5・7・5・7・7音に切って、一首三十一音。意味の上では、三句「蜂の音」で切れる。

 

聴覚の歌だ。散歩の途中だろうか、<わたし>は道を歩いていて、行く手に藤棚を見とめる。藤棚が近づいてくるのを見ながらそのまま歩いてゆき、白藤に群がる蜂の音を聞きつつその前を過ぎる。藤棚から離れるにつれ、蜂の音は聞こえなくなる。そんな場面と読む。「あゆみさかりてその音はなし」という言い方からは、<わたし>が立ちどまることなく歩きつづけていた印象を受ける。しかし、歌集の中では「当麻寺」という小題の下に置かれているので、あるいは藤棚の下にしばらく佇んだのちに、その場を離れたのかもしれない。どちらに取るかは、読者にゆだねられるだろう。

 

この歌のどこが好きかといえば、蜂の音の捉え方だ。聞こえない人には聞こえない音。それに感応し、ことばに定着させる。結句「その音はなし」がいい。すぱっと言い放つ、その言い放ち方。「あゆみさかりて」が「歩いて離れて」という意味だということを、私はこの歌で知った。初句から結句まで、ことばはシンプルなのに、情景がくっきり立ちあがる。ああ歌ってこういうことをいうためにあるんだなあ、と思う。

 

一首は、作者の自信作だったらしい。主宰誌「歩道」の編集後記に、「歌の鑑賞」と題して佐太郎はこう書く。

 

以下引用

たとえば「現代短歌評釈」では、私の作品について菱川善夫氏が執筆しておられるが、(中略)

それから「白藤の花にむらがる蜂の音あゆみさかりてその音はなし」という歌を、「白藤の花に、さきほどまで蜂がむらがっていたが、今その蜂たちは、ことごとく歩み去って、どこにもその音はない。あとには、深々として真昼の静寂だけが高なっているだけだ」と解釈されている。これも作者のつもりでは、私が藤棚の下から離れてきたことを言っているつもりである。「蜂の音」で切れて、そこで休止するから無理なく受取れるはずだし、蜂の飛ぶことを「あゆむ」と受取るのは不自然きわまるといっていいだろう。ざっとこんな感想だが、こんなことをいうのは不遜であろうか。

「透きとおるような感性の内側が、きびしく凛然としている」とか「ここにあるのは、白昼そのもののもつ孤独、いや孤独などという人間的なものではなく、時間の本質そのものとして静寂の相ではなかろうか」などとほめてもらっても、私はこれをどう受取っていいのかとまどうほかない。歌はあまり面倒でなく字面どおりに受取るのがいいことを知って貰いたい。(昭和四十二年八月)        『短歌作者への助言』(短歌新聞社選書 2010年)

引用ここまで

 

歌というのは、頓珍漢な鑑賞をすると、作者にこんなことをいわれてしまうのである。他山の石としたい。