ドアエンヂンなかば閉りて発車せしあはひゆさむき日が脚に射す

前田 透『漂流の季節』(1953年)

 

ジャスミンの花の小枝をささげ来てジュオン稚くわれを慕へり

さそりが月を齧ると云へる少年と月食の夜を河に下り行く

判断中止の甘き時間がつづきをりクリストラア中尉わが調書読む

ビーカーにをさなごの尿持ちて行く廊下におそき月は射しつつ

昏睡するをさなごを見て縁に立つ夏のかげりはほの青くして

夜おそく厨にさむき灯をともしその下に煮る青き注射器

 

『漂流の季節』は、1946年(昭和21年)から1953年(昭和28年)の作品を収める、前田透の最初の歌集。チモールでの体験や病のこどもを詠んだ作品が大きな位置を占める一冊である。また、父・夕暮が亡くなったのは1951年であった。しかし、題材が重要なのではない。こうした題材を詠みながらも、なんでもないことのように向き合う、前田の、自然体のありように着目したい。

 

河岸(かはぎし)にうすき氷がたゆたふを見てかへりしが妻に語らず

操車場に青き灯ともり高くともりカーヴに入れるとき美しく見ゆ

素直なる妻はわがため蔵(しま)ひをり南方へ行く日の麻の白服

地下鉄が止りしときに吾は見つ光をもてる壁面の水

無声映画のごとくにも見ゆ指揮車より下りし者ら動作するさま

外套の襟立ててくらくゐる電車酔はしづかにかなしみとなる

 

「小さき善意まもりて生き行けばこよなくやさしわが小周囲」といった一首もある。チモールでの体験も病のこどもも、前田の「小周囲」なのだろう。「小さき善意まもりて生き行けば」。それが前田の自然体である。

 

ドアエンヂンなかば閉りて発車せしあはひゆさむき日が脚に射す

 

ドアエンジンは電車などのドアを開閉するための動力装置のこと。ここでは、自動ドアの意味で使われているのだろう。形態の面よりも機能の面が強く印象づけられ、下句と響き合いながら、一首を豊かなものにしている。

冬、あるいは晩秋、早春の日射しだろうか。「さむき日」という把握が美しい。「あはひゆ」。ドアの間から、という意味だが、時間的なそれもイメージさせるフレーズだ。発車したときといま、その間。そのちょっとした時間の移ろい。そこになにかがあるような、そんなことを思わせる旧かなの4文字である。

「日が脚に射す」。「脚に」というやわらかな、そして細やかな描写が、リアリティを支えている。