島田 幸典


歌集を「味わう」ということ

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 小池光の『茂吉を読む』(*1)はすぐれた茂吉論であり茂吉短歌論である。その「あとがき」にこんな言葉がある。
 

神田の古本街を歩くと茂吉歌集の現物はいくらでも安価で手に入る。詩集歌集は全集やアンソロジーで読んでも十分には味わえるものでなく、やはり現物を手にすることが大事なようだ。

 
 一読以来、気になっている一節だ。腑に落ちる。だが、その理由を言語化することは簡単ではない。理屈以前に体験でつかみとる。そういうタイプの知恵なのだろう。

 近代短歌について書かねばならないとなると、まずは全集にあたる。茂吉の歌集は別として(というのもその多くが戦後に出版されているので)、近代の歌集の「現物」を手に入れるのは難しい。『みだれ髪』や『桐の花』ほどの記念碑的歌集なら文庫化もされている。が、それ以外となるとどうか。どんなに著名な歌人の歌集でも、再版されることは稀だろう。だから全集に依存する。それに全集なら、散文や日記、書簡その他の関連資料に易々と触れることもできる。だが、これはいわば一種の用足しだ。活字化された情報を収集・分析し解釈するという知的作業のための便法である。

 それなら、なぜ現物は大事なのか。もちろん、必要もある。全集化されるほどの大家のものでなくとも読みたい、論じたいと思う歌集歌書はたくさんある。それなのにめったに再版されず、図書館で借りるのも難しいとなると、こまめに古本屋なり古書検索サイトなりを覗いて集めるよりほかにない。つまり現物確保は、多くの歌人にとって習慣化された「心がけ」なのだ。それに現物には文字化されない様々の情報がある。表紙や見返し、紙質や色、挿画や外箱の有無、組み方や書体、総じて装幀は作家の美的感覚や構成意識、さらに時代性をも反映する。そういう情報を全集は再現できない。

 しかし、必要性では説明できない所有願望に導かれて、古本を手にとることもある。たとえば岡井隆の『鵞卵亭』(*2)。全歌集にも文庫にも収録されている。もう何度も読みかえした。それなのに黄昏の「かっぱ横丁」(大阪梅田の古本街)で政田岑生装幀の、瀟洒な箱入り歌集を見つけると嬉しくなる。頁をめくる。作品が一頁ごとに一首ずつ組まれている。なんと贅沢なと思いながらも「泥ふたたび」といった傑作になるとやはり十分な余白に堪える、いや十分な余白のなかでこそ読みたいと感じる。

 読み手の所有欲はしばしば衝動的で抗いがたい。それは作り手が歌集に託した表現意志にたいする、読み手からの応答である。しかし歌集が、歌人の表現方法としてそれほどまで大切な地位を占めるようになったのは、せいぜい近代以降の現象だ。古来うたは一首ごとに創作され、また記憶された。作品集は作者自らというより目利きによって、しばしば他の歌人の秀作とともに選集として編纂された。(作者というより編者の表現手法だった。)かりに作者の個性にたいする敬意から、あるいは作者自らの手で編纂がなされるとしても、それは「家集」として人生の総体を背負った(*3)。逆に言えば一時期の苦悩や歓喜に的を絞りこんではいなかった。だから「青春」歌集は成り立ちえなかった。このような歌集観は少なくとも子規や節の頃までは、標準的なものであったろう。(じっさい彼らの「歌集」は、没後に門人後輩によって編集されている。)

 だが明治になって三十年近くが過ぎたあたりから、つまり二〇世紀が間近に迫った頃から、歌集をめぐる状況は決定的に変わった。それは純粋に作者のものとなり、収録作品の制作時期も短縮された。時期を短く区切ったことは、歌集のたたずまいを変えた。歌集はより統一感のあるものとなり、作り手の個性や創作意識、そして自己愛をより敏感に映しだすことになった。要するに、個人主義的作家観が歌壇にも浸透した。つまり歌集はすぐれて近代的な詩歌メディアとして成立した。

 作品を読む、という目的だけなら、その入れ物の「かたち」はたいして重要な問題ではないのかもしれない。だが歌集という「かたち」を求める気持ちには、作り手のうちに流れた特定の時間や、そのときの作り手を捉えた意識や感覚をまるごと手に入れたいという願望が投影されている。その意味で小池の言う「味わう」は、文字テキストを享受するということ以上のものを含んでいる。

 古本はけなげで、しかも逞しい。薄暗い書架の片隅で時の篩に耐えながら、自らのうちに閉じ込めた書き手の時間をいつか解き放ってくれる読み手を待っている。

     

     両手もて振れば函より出づる本いのち永らふ黄のパラフィン紙

篠弘『凱旋門』(*4)
                                                                  

 標題に掲げた「辺」は「周辺」の辺であり「身辺」の辺でもある。歌壇ジャーナリズムの表舞台や尖端部に現れない話題、短歌の周辺や歌人の身辺について記したい。

 

(*1)五柳書院、二〇〇三年。
(*2)六法出版社、一九七五年。
(*3)『現代短歌大事典』三省堂、二〇〇〇年の「歌集」の項(佐佐木幸綱執筆)を参照せよ。
(*4)砂子屋書房、一九九九年。