半年前の旅

 拙宅のある小さな集合住宅は河岸段丘にあり、毎朝15段の階段を降りて出かけてゆく。今朝はその階段の脇に白躑躅が咲いているのに気づいた。空は一応晴れて、青空六分、雲が四分というところか。並木のニセアカシアには濃い色の葉が折り重なるように繁りはじめていて、風がそれをほぐすように吹いている。斜め後方から山鳩の声が聞こえる。前方の一塊の雲がやけに白く、空の青は深みがあるように見えた。そして、今日の思いは一点に帰ってゆく。去る4月24日に岡野弘彦先生が亡くなられた。私が「人」短歌会の末席に加えていただいたのは1976年、その「人」が解散となったのは1993年、17年の間、その声を月に一度聞いていたことになる。先生の熱の籠もった声を思いだす。
 我ながら、才がないのはやむを得ないが、その謦咳に接しながら学ぶのに怠りがあったことを申し訳ないと思っている。

 昨年秋、忘れ難い時間を経験した。
 2025年10月12日、日曜日午後0時半頃、われら4人、それぞれの荷物を持って、足早に三重県の津新町の駅前へ急いだ。そして、タクシーを見つけ、そこに立っている運転手さんに、「これから、川上山若宮八幡宮まで往復、いいですか」と声をかけた。運転手の青年は、少し慌てた様子で「えっ。ちょっと待っていただけますか」と返事して、運転席に戻り、地図を見たりしていた。会社に電話もしたようだ。1分ほどたって、にっこり笑いながら「はい、大丈夫です」と答えてくれた。片道50キロ、往復100キロの道のりである。
 この津新町駅近くの施設で、前日から「笛」の会の2025年の大会があった。正午を以て、大会が終了すると、どこかへ立ち寄るグループがいたり、あるいは早く一人になりたい様子で、挨拶を終えてまっすぐに駅に向かう人もいた。その中で、昨晩から「川上山若宮八幡宮へ行こう」と言っていた若い人1名とそれに賛同した年配者3名がタクシー乗り場に急ぎ、今、乗り込んだのだった。空は、ぽつぽつ雨粒が落ちてくるが激しい雨になる気配はなかった。
 車が走り出すと、それぞれ、何か覚悟を決めたような表情となり、少しずつ標高を上げてゆく窓外の田園の風景を見ていた。川上山若宮八幡宮は岡野先生の生家である。
大きいスーパーマーケットがあったので、そこに寄り、兵糧としておにぎりとお茶を手に入れた。もちろん、運転手さんの分も……。
 提案者の若い女性の後輩の話によると、友人に津の町に育った人がいて、その人は七五三の時には遙か山の奥にある若宮八幡にお参りに行ったという。町や村のお宮より、霊験あらたかな神社と認識されているのだろう。
 車は山間の道に入ってゆく。雨は強くはならないが、完全に止むこともないようだ。見上げる尾根は雲を被っている所もある。集落があり、田畑があり、森が続くところ、川を見おろすところもある。山道をひたすらに登ってゆく車に、岡野先生はここを下り、また登りして、人生の決断をしていったのかと思った。
 私の父は、実は岡野弘彦と同じ大正13年の生まれである。甲州の寒村に生まれ、やはり家を継がなかった。旧制中学、工業専門学校、大学と進み、いわゆる理系だったので兵役や徴用からは逃れた。ある時、親類が集う場で、誰かが「優秀だったんだな」と言ったら、「本当に優秀な奴は霞ヶ浦に行った」と父が答えたのが聞こえた。いわゆる予科練へ志願して行った青年が父の周辺にもいたらしい。岡野先生の作品に出てくる同世代の戦死者に向けての歌に通じる思いが父にもあったのかもしれない。

辛くして我が生き得しは彼等より狡猾なりし故にあらじか 

岡野弘彦『冬の家族』

 父は、商社員となり、多少の持ち山も含めた農の家は、弟に譲ることとなった。
 岡野先生の御実家に向かう途次、私は自分の父のことを考えていたのだった。
 同乗の年輩女性のうちの一人は、新潟県の、冬は二階から出入りするほどの土地の出身であり、山の中にほとほつとある家々を見て思うところがあったであろう。あるいは、同じ日本の田舎でも、越後と伊勢の違いを考えていたかもしれない。
 もう一人の年輩の女性は、都会育ちではあるが、疎開の経験者である。疎開から引き揚げるときに乗せられたのが無蓋車で、雨に打たれながら東北線を帰ってきた経験があるという。今日の雨にそれを思い出していたかどうか。
 なお、名松線終点の伊勢奥津駅がある奥津、そしてそこから南に登ったところの川上の集落などを地図で見ていると、谷が東西にのびている印象がある。そこで「ああ」と気づいたのが、「中央構造線」である。鳥羽から伊勢神宮、高見山地、吉野、和歌山市へとつながっている。目指す川上山若宮八幡神社も、中央構造線に沿った高見山を主峰とする高見山地の中にある。
 縄文時代の黒曜石の鏃の流通を分析した論文を若い頃に読んで、意外にも尾根筋を物や文化が伝わったことを知った。その論のイメージが記憶に残っていた。鳥羽から和歌山まで、地図を見ながら何らかのルートがあったのではないか、などと考えた。
 車は雨模様の山村を登ってゆく。岡野先生の通った学校があった川上から、神社に向かって山道を進む。運転手さんは右に左にハンドルを動かしていたが、突如、空が開け、広々した所に出た。神社下の駐車場である。木々に囲まれているが、意外に広い。
 ここで車を降り、鳥居をくぐって山道を登ると、すぐに受付のある建物の前に出る。その建物の上には、修験者や参拝者を泊めたのではないかと思われる建物が見える。
 受付に出てこられたのは、岡野先生の甥の奥方ではないかと思われる。来意を告げ、参拝の御許可を頂いた。本殿は見えていて左手の橋をわたり、登ればよいのだが、指図の通り、まず、橋の手前で川辺に下り、川の水で手を清めてから、参道に戻り、橋を渡って本殿の下に出た。石段を上がると本殿である。大きな天狗の面がこちらを見ている。内部は暗くてよく見えなかった。

 実は私は二回目であった。40年ほど前の「人」短歌会の全国大会の折に、皆で参拝したことがある。岡野先生に代わってここを継いでいらした弟さんの祝詞の声を今も憶えている。少し甲高く、力強いものだった。修験道の要素が強いからだろうか。それとも御本人の個性だったのか。
 参拝後、境内の巨木の幹に手を当てたり、雲出川の源流のひとつである清流の音に耳を傾けて時を過ごした。社務所に戻ると、三人の方が出て来てくださって、お見送りを頂いた。
 駐車場に戻って運転手さんと周りの山を眺めながら話していたら、実は彼は川上山若宮八幡宮に来たのは初めてとのことだと言うので笑ってしまった。酔狂な客に、こんなところまで連れて来られたわけだ。当日、津の街は祭だったので、そちらで仕事をするつもりだったのかもしれない。
 帰路は、雨雲のかかった山並の下を、ひたすらに下ってゆく。そこを走りながら考えた。私のような凡俗な人間はいったん都会へ出て、仕事や生活を得たら、こうした山村に戻るのはなかなかできないだろう。
 岡野先生にとっては、厳しい決断だったのだと思う。

怒ることためらふごとき弟の眼を見つめをりいかれと思ひて

岡野弘彦『冬の家族』

 平地に戻るとかなりの降りになっていた。津駅で雨の中で解散となった。2人はJR。私ともう1人は近鉄に乗ったが、名古屋からひとりとなって、この特別な半日を思い返していた。歌はできなかった。ほかの参加者の作品を笛191号から抽く。

伊勢の山やさしく丸き 山襞に霧立ち登り小雨降りくる

多賀洋子

 
本殿の中に灯りの点る見え高ぶるわれの心なごめり

山仲紘子

 なお、今回の参拝の提案者である若き会員には、あらためて感謝の意を示したい。そして、彼女には、系譜意識はないか、あるいはうすいだろうが、いつか己れの歌の方向に迷いなどが生じたとき、「笛」創立者の藤井常世や、縁ある歌詠みとしての岡野弘彦の歌集を開いてみてくれれば、よいと思う。

以上