中高で山歩きをしていたので、「夏の思い出」(江間章子詞、中田喜直曲)は好きな歌だった。しかし、残念ながら尾瀬に足を踏み入れたことはない。ただ。この曲名を見るたびに思い出す夏がある。大学2年、1974年の夏である。
前期試験の終わった日の翌日から約1週間、北アルプスの縦走登山に中学時代の友人2人と出かけた。雪渓を登り切った後に夕方の谷を見下ろしながら吸った1本のWinstonが旨かった。日焼け対策は麦わら帽子だけだったので、皮2枚がはがれる惨憺たる状況で帰京した。電車で通路の向こうにいた小学生を怖がらせる顔になっていた。
帰宅して1週間ほどたち、8月上旬、愛知県鳳来町へ赴く。「日本民俗学研究会」という学生のサークル活動で、民俗調査の真似事を行っていた。その前年、1973年は長野県新野、翌年、1975年は静岡県の西浦だった。何れも優れた民俗芸能を維持している地域である。そういう地域は、いろいろな分野、信仰、年中行事、通過儀礼、生業などで伝統行事が残されていることが予想されるというのが、会の考えだった。
前年の調査地新野では、盆踊りや雪祭りが印象に残った。
またひとり顔なき男あらはれて暗き踊りの輪をひろげゆく
岡野弘彦『滄浪歌』
夜まつりは、/朝に残れり。/日のあたり強き 舞ひ処(と)に、/鬼は まだゐる釈迢空『春のことぶれ』
岡野の作に詠われているのは、自身の故郷の盆踊りかもしれないが、私にとっては、朝の神事まで見た新野の盆踊りの思い出に結びついた一首である。迢空の作は、新野の雪祭りのようだが、愛知県の花祭りや、長野県遠山の霜月祭り、西浦の田楽などの印象も重なっているようだ。なお、これら三信遠の山村の祭は冬に行われるが、毎年、友人達と見て歩いた。
さて、1974年の調査地、奥三河の鳳来町には、盆に行われる「放下踊り」がある。笠を被った20人ほどが寺の庭に現れて踊るのだが、その姿は旅の宗教者とも、彼の世から帰ってきた祖霊とも見えた。民俗学をちょっと齧っていた我々は「マレビトだ!」などと呟きながら見ていた。
私は、通過儀礼班の一人として、婚姻や育児などを担当していた。この奥三河鳳来町の調査では、坐産について、経験者のおばあさんから話を聞き、記録したことが記憶に残っている。また、ある家の八十代のおばあさんの「この家に世話になって七十年だ」の一言が忘れられない。
十日ほど後、調査は終了したが、友人の一人と三河山中の道を少し歩き、松平氏発祥の地「松平」を訪ねたりしたのち、岡崎平野の矢作川のほとりの彼の家に一泊させてもらった。広々とした田畑、滔々たる矢作川を眺めて散歩していたら、パトカーの警察官に止められた。私が手に持っていた扇子を指さして「それは何だ?」と言ってきた。刃物か何かに見えたのかもしれない。はじめに一人が話しかけてきて、もう一人がさっと我々の背後に動いた時は、さすがにびっくりした。私の手にあるのが扇子とわかってすぐに去って行った。
8月下旬には、体育の科目「山岳」を履修するため、上高地に出かけた。約1週間滞在しながら周辺の山に登ったりするのだが、はじめての人たちといろいろ語り合うのは楽しく、勉強になった。交通事故を起こした時、親に「自分で責任をとりなさい。」と言われたとか、人生甘くないぞ、という話が記憶に残っている。
上高地から帰って、9月に入ると、但馬の祖母宅に出かけた。つれあいの祖父は明治33年に生まれ、若い頃はいろいろやっていたようだが、戦争前には東京深川で印刷会社を作り、空襲のあとも復活を遂げた。70歳の頃、故郷但馬に祖母と共に帰郷した。すでに他人のものとなっている生家の隣に土地を買い、家を建てた。しかし、数年で癌にたおれ、程なく亡くなって祖母が一人で住んでいた。祖母は神戸出身の都会人である。
そこを足場に、自転車を使って城下町出石へ出かけたり、豊岡の大石りくの墓に参るなどしていた。また、山陰線にのって伯耆大山に登りに行った。意外に土っぽい山であったが、日本海の眺めはすばらしかった。
翌年、1975年には、出雲へ出かけ、同行の友人をひっぱって木次線に乗り鳥髪山を眺めに行っている。もちろん、次の一首を心に持ってのことであった。
行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ
山中智恵子『みずかありなむ』
この時、もう一箇所、忘れ難い場所に行った。松江の北の山を越えた海岸にある「加賀の潜戸」である。小さな半島に貫通している波があけた洞窟だが、中は賽の河原である。赤いランドセルを背負ったお地蔵さんがあった。実は、この1975年に民俗調査を行った水窪町西浦に行く途中に「日本三大賽の河原」の一つと看板に書かれた場所があった。立ち入って確かめる機会はなかった。その看板曰く、あとの二つは、恐山、そして加賀の潜戸だった。恐山はその10年後ぐらいに訪れた。この2箇所は、かなり衝撃を受けた場所である。
但馬の祖母宅に滞在中、書棚にあった一冊の歌集をひろげた。祖母が「裏のおばあさんの本」と言った一冊である。折り目正しきアララギ短歌だった。時々、お宅の前の畑にかがみ込んで何かされているのを見かけていた。庭の草花、畑の野菜などがとても生きいきと詠われていた。一気に読み切ったと記憶している。奥付頁の著者略歴を見てもう一度驚いた。「埼玉県立浦和第一高等女学校卒業」とあった。人を「出た学校」で何か言うのはどうかと思うが、祖母に聞くと、医師の家に生まれ、将来を嘱望されていた薬剤会社の社員と結婚したが、戦争で夫の故郷のこの但馬の農村に疎開し、そのままここに住み続けたとのことだった。この一冊の歌集出版には、子ども達がお金を出したという。祖母は、静かで穏やかなおばあさんだと言っていた。あの歌集、もう一度読みたいと思っている。
ところで、祖母の家の朝飯はおいしかった。とくに、鰯が旨い。日本海の新鮮な鰯が手に入るのだろう。その焼いた鰯をいただきながら思った。祖母の家は、西は直ぐ山で、東には広い田んぼがあり、田を横切る山陰線のむこうに山が見える。そこまでは2キロか3キロか。空には鳶が円を描いている。その見える範囲ぐらいが、人間が認識できる空間の大きさではないか。そして、その空間の中で暮らしながら、おいしい鰯を毎朝食べて過ごす人生もいいではないかと。その朝の「認識できる空間」の実感のようなものは忘れ難いものとなった。
さて、9月10日過ぎ、但馬を後にして向かったのは奈良であった。一般教養のゼミというのがあり、林勉先生の「古代研究」のゼミに入っていた。教室では万葉集を頭から読んでいたが、合宿では奈良、飛鳥を歩くのだった。有名な日吉館に泊まってあれこれ見て回り、また、橿原神宮の近くの宿にも泊まった。そこでは、それぞれのメンバーが一人で飛鳥を一日歩き、何を見てきたかを、夜、報告し合うというということをした。
私は、奥明日香と呼ばれる飛鳥川の谷の、稲渕の男綱、栢森の女綱を見に行った。この勧請縄と呼ばれる造形について、詳しく調べたことはないが、谷にかかっている藁の作り物の風情は、何かを訴えている感じがあった。南淵請安の墓がこの谷にあるものちょっと意外だった。そして、耳には飛鳥川の水音が常に聞こえていた。
飛鳥からどのように帰ったかは記憶にない。東京都小金井市の平凡な住宅街にあるわが家に帰り着いて、まだ明るかったが風呂に入り、長い夏を充実した思いで振り返った。翌日は、後期第一日目だった。
なお、風呂に入っていて、街のさまざまな音が聞こえてきた。日常に帰ってきたと思いつつ、それは、また新鮮でもあった。この時、「遠街の音」という言葉を思いつき、のちに出す歌集のタイトルにした。
この夏のことを、どこかに書きとどめたいと思っていた。よいチャンスだと思って、だらだら書いてみた。読者には申し訳ないと思う。
以上
