吉野 裕之


歩みきて去年の団栗拾ひたりわづか濡れたる土の上より

大河原惇行『昼の花火』(現代短歌文庫『大河原惇行歌集』所収)(2009年)

 

わが庭にやうやく蕾ふくらめりらふばいは少しためらふに似て

西の方とほく雲ゐる山々は水上にしてしづむ夕かげ

死に近き人の脈拍にふれてのち帰りゆく道白く凍れり

二階よりわが見る肉桂の若き葉にいまだに暑き夕光のさす

葉のかげの枇杷の実色づくころとなり鍼うつ妻の手のなれてゆく

 

50歳前後とは、こんなに穏やかなのだろうか。こんなに穏やかに、ものごとを受け取ることができるのだろうか。

大河原惇行の『昼の花火』より引いた。あとがきに、「四十六歳から五十三歳の作品集」とある。ちょうどその年齢にある私は、なんだか驚いてしまう。

大河原は20代前半に、「何といふ静かな日ぐれ乾きたる石原とほく残る光あり」「あやしく静かなるかな夕岸に枸杞のくれなゐの実を君がつむ」(ともに『夏山』(1978年)所収)といった作品をつくっている。若々しい。しかし、穏やかさはまぎれもなく彼のものだと思う。

距離の取り方なのだろう。対象に向き合うとき、大河原は半歩下がっているのだ。半歩下がれば、空間的にも、時間的にも、広がりが生まれる。広がりは問いを促す。

 

歩みきて去年の団栗拾ひたりわづか濡れたる土の上より

 

「歩みきて去年の団栗拾ひたり」。歩みきた時間を思う。その時間を抱きながら、去年の団栗に出会う。「拾ひたり」。出会い。それは拾うことで生まれる。拾う指の感覚が、団栗の存在を確かにする。「わづか濡れたる土の上より」。「わづか」がいいなあ、と思う。この一語によって、土が見え、空間が見える。視覚だけではない。皮膚、耳、鼻といった全身の感覚が起動する。

「歩みきて」「わづか」といった繊細なことばの斡旋が、大河原の魅力であり、武器であろう。繊細なことばの斡旋。それは問うことによって生まれる果実。問うから応えてくれる、そんなやりとりが生み出す果実。応えてくれるのは、彼が自らを置く世界。

三句切れ倒置法のオーソドックスなかたちの一首だが、しかし、しかし豊かな膨らみが、一首と出会えた喜びである。

 

編集部より:現代短歌文庫74『大河原惇行歌集』はこちら↓

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