三枝浩樹『歩行者』(2000年)
草を読み木を読むごとく立ちおれば雨が統べゆく秋の草原
昨日とはきみのいた時くさぐさのしぐさ会話の尽きざりし時
きらきらと街ひかりたり もうすでにおとなの時のなかにまぎれて
はるかなる平凡な日の父がいて母がいて ちいさな秋燃えている
なんでもなくはじまってゆく退屈ないつもの朝に戻れたら……いい
朝のポストに手紙を入れる少女いて雪あたらしき今朝の連嶺
手押し車に頼り散歩に出かけゆくもの言わぬ背を春の日に見る
三枝浩樹の作品は、豊かに時間を抱えてそこにある。解釈は可能だけれど、解釈をしないほうがいい、解釈のためのことばを重ねないほうがいい。つまり、ことばの手触りと韻律によって支えられた作品たち。豊かに時間を抱えているがゆえに、ことばの手触りと韻律が確かなのだ。
他者である者/物への視線が、やさしい。このやさしさは、かなしみが昇華されたものなのだと思う。かなしみは、自身のそれ。
少年はいつもむきだし 天からの手紙に濡るるその眉と肩
「天からの手紙に濡るるその眉と肩」。手紙は雨。眉と肩は、葉と枝の比喩だろうか。手紙に濡れる眉と肩。雨に濡れる葉と枝。いわば比喩が交差した、あるいは重層した構造となっているのだろう。
「少年はいつもむきだし」。そう、少年はいつもむきだしだ。皮膚が粘膜のように、痛みを受けやすい。いつも傷ついていて、しかし泣いてはいけないと教えられる。天からの手紙は、涙を隠してくれる。それはやさしさであり、きびしさでもある。
そして、少年=幼い樹木は、必ず健やかに育つ。そう思う。