今日の水は流れいるかと問う我に年々異なる者が答える

長谷川富市『水の容体』(2009年)

 

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。鴨長明は方丈記にこう書いた。その長明が現代によみがえって言問うているような歌だ。

 

〈今日の水は/流れいるかと/問う我に/年々異なる/者が答える〉と6・7・5・8・7音に切って、一首三十三音。今日の水は流れているか、と尋ねる〈わたし〉に、毎年違う者が答える、と歌はいう。問いは毎日投げかけられるのだろう。それに対して、毎年異なる者が答える。「今日」を「年々」で受けたところに、ひねりがある。「マヌの法典」の一節にでも出てきそうな、謎かけふうの歌だ。

「水」とはどんな水か。「我」とは誰か。「異なる者」とは誰か。

 

「今日の水は流れいるか」という問いは、水が流れない日もあることを示唆する。水が流れない。それは、忌々しきことなのではないか、ゆく河の流れは絶えないはずではないか、世界はどうなってしまうのか、と読者は不安になる。だが、歌の中ではさほどの大事でもなさそうだ。問われた方も「流れています」「いません」など淡々と答えている気配がある。さらに謎めいているのは、答えた者がその年かぎりで去ってしまうらしいことだ。次の年にまた別の者があらわれ、また淡々と答える。次の年、また次の年。果てがない。水の流れと時の流れを、重ねあわせた歌だろうか。世界とは、水が流れているかどうかを、その時々に生きる者が問う場所である。

 

歌集の中に置いて読むと、一首の場面は確定する。歌は「大学」一連の中にあり、前後には〈水流す実験をせし学生が少しやつれて夏を迎えぬ〉〈細き月西空ひくく懸かるとき小孔通す水の実験〉〈ささやかな一つのことを為さんとしわが半生を水に励みし〉などの歌が置かれる。〈わたし〉は水の研究をする人らしい。

 

前後の歌から明らかになる、こうした一義的な意味は意味として押さえつつ、しかし冒頭の一首は、歌のことばがそれだけで訴えて来るものを受け止めて、読み手なりのイメージを広げた方が楽しめるだろう。

 

『水の容体』は、『フラスコの水』に続く作者の第三歌集だ。水の観察者として年季を積んだ人ならではの、新鮮な視点による水の歌が多く収められている。

 

大海に出るとき我が身かろがろとふくらみ元の水となりたり

夜よなか水の性質調べ居て罪のごとくに思うことあり

飛行機の窓に流れる幾条の水透明の針金に似る

先端に立ちてみたらば水青しみずーと底伸び引き込まむとす

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