漠さんの春の笑顔をおぼえておくそうぼくたちは思うここにて

吉野裕之『砂丘の魚』(2015年)

掲出歌には、「鹿児島へ行ってしまう」という詞書があるので、「漠さん」というのは親しくつきあった知人の呼び名だろう。三月から四月にかけて職場や学校では、新たな出会いと別れのセレモニーが行われる。テレビなどでもアナウンサーが交代になって、新しい顔が現れたりする。この歌に続いて、

 

朝取れたトマトのような色合いで発酵/発行しゆくきみのメディアは

 

という歌があるから、地域の情報誌のようなものを発行してきた人かもしれない。この歌からは、そういう気配がする。吉野裕之の歌は、言葉をやわらかく使って、リアルな現実の事象の尖った角をいったん削り取ってオブラートに包んでしまうところが独特である。たとえて言うならば水彩で、なるたけ抑えた色調を用いて、従来の短歌が目指していた詩の概念から少しだけはみ出したところをつかもうとする。

 

部屋ぬちを午前の過ぎる音と思うかたつむりかたつむり見ている

書き入れてゆく文字消されてゆく文字を乗り越えながら固まってゆく

 

こういう意外な角度からスローボールを投げ込んでくるような歌が、私は気になる。読んでいると作者はとてつもなく善人なのではないかと感じられて、それは絶対善の立場から世界を見ているような気がして、私にはしばしばそれが物足りなく感じられることが多かったのだが、この「かたつむり」の歌は、ここまでやれれば大したものだな、というか、この超のんびりした感性を気負わないで自然体でできる人なんだな、という別種の感嘆が私の中には生まれて来たのである。

二首目の歌は、たぶんマニエリスムをマニエリスムとして繰り返す姿勢のようなものをそのまま取り出すとこういうかたちになる、というような歌で、読んだ瞬間は面白くも何ともないのだけれども、建物が建ったり組織が立ち上がって行ったりすることを言葉で言うとこういうことなので、それはまったくそうだな、という了解の方に理解が「固まってゆく」と、少しだけおもしろい。それをばねにして次をみると、また興味をひく歌が出てくる。「空間の」と詞書があって、この詞書は初句のようにも読めるのだが、

 

手触りについて語れば立ち上がる人びとがいて終う会議は

 

という歌があり、これはたぶん作者の職場詠なのだろう。そのような仕事に携わっている人だということを著者紹介のホームページで見た記憶がある。現代の都市において「空間の手触り」はものすごく重要だが、確かに従来の叙法だけでは歌にならない。

 

ぼくの名が調べられたる気配あり砂鉄のような気配とおもう

 

という、これはよくわかる。こんなふうな現実がわれわれの周囲には一般化している。こんな具合に詩的な比喩を用いなければ、この違和感の「手触り」は伝えられないのだ。

 

編集部より:吉野裕之さんの「吉」の字は、異字体で本来は3画目(士の下段の横画)が長いのですが、ここでは、便宜上、「吉」を使用しております。ご了承くださいませ。