いしひろうなんてひさかたぶりのこといしがこんなにつめたいなんて

おさやことり「誌上歌集 いずみやに」

 

染野太朗・吉岡太朗発行『太朗?』(2015年)より

@fuurin6senman

 

一昨日に続き“遊び”の歌です。

筆名のOSAYA KOTORIはYOS(H)IOKA TAROのアナグラム。それにしても、歌が読みにくい。

全かな表記でも、会津八一の歌集のように文節間に空白があれば語に意味が生じますが、このように連ねてしまうと意味も、リズムもあいまいになってきます。

“読む”意志なくこの歌を眺めていると「医師疲労」「鰤」「煮詰め」という字が浮かんだり、もはや翻訳(珍訳)。「石拾うなんて久方振りのこと石がこんなに冷たいなんて」と書いてみても、それが正解とは言い切れない気がしてきます。

 

やわらかくまわるしゃりんのもうわたしなんかみじんこみたいにとおく

ぴーえっちちょうせいざいをふくむゆえおにぎりきょうもそくさいでした

すすられてかまれてはきだされたきっぷそのりふじんにかたんしたこと

 

現代短歌らしく「もう私なんか」「噛まれて吐き出された切符」と句またがりがナチュラルに出てくるのが読みにくさを増しているわけですが、「息災でした」なんて仏教由来の言い方は庶民的で、なるほどこれはふだんから意味より音声でとらえている語でした。

そして「みじんこ」。「微塵」(これも仏教語)は、万象に溶けたいと願った宮沢賢治の夢の自己像でした。

腐らないおにぎりに「息災」を、改札機に蹂躙された切符に「理不尽」を見る心もまた、万象に痛みを感じる心。

吉岡太朗さんのなかの「微塵」感覚が、歌の総ひらがな化や、作者名の組み換えという解体行為をとらせたのか。真剣な遊びです。