「自由を謳歌」ってひとりぐらしのトイレにも鍵かけているわたくしが、か

イソカツミ『カツミズリズム』(本阿弥書店:2004年)


(☜3月27日(月)「人から見た自分 (1)」より続く)

 

◆ 人から見た自分 (2)

 

親元を離れて一人で生活をしている日々のなかで、同僚なのか友人なのかは分からないが、おそらくは家庭を持つ人から「いいなぁ自由を謳歌して」とでも言われたのだろう。周囲からはそのように見える自分は、実際にはひとりぐらしの家でもトイレに鍵をかけるようなどこか神経の休まらない生活をしている。そんな真実は知らないはずではあるが、なんだか相手の言葉が嫌味のように思えてくる。
 

結句の「わたくしが、か」は「、」を一音と数えて七音となる。初句から三句目までの畳み掛けるような調べののちの一拍の休符に、「自由を謳歌している」と言われたことへの驚きや、生活の実態への諦めのような気持ちがぎゅっと込められているのが読みどころだろう。
 

「わたし」ではなく畏まった「わたくし」という自称も、生活の実態とのギャップを深く印象づける効果を上げている。「独身貴族」という言葉のその出自は分からないが、
「わたくし」は「貴族」がいかにも使いそうな自称である。
 

相手の本意はどうであれ、無遠慮な言葉に、人から見た自分と実際の自分との違いを意識してしまう。同じような歌が、小島ゆかりの歌にもあった。
 

「幸せな人ね」と我を言ふからにしあはせさうにその人に対く  小島ゆかり『水陽炎』

 

小島ゆかりが「しあわせさうに」振る舞うのも、イソカツミが「わたくし」という自称を用いるのも、相手の印象に自身を添わせられるという余裕があることを見せようとした、精一杯の抵抗にも思える。
 

もし、相手に言われた言葉が「自由を謳歌していないよね」であったり、「不幸せな人ね」であったらどうだったであろうか。それはそれで、生活や生き方を見透かされているような気がして気持ちのいいものではなさそうだ。人のこころは難しい。
 

表面的な印象で語られても、正しく指摘されても嫌なこと――。つまりは、そこが最も人に触れられたくない場所ということになるのだろう。
 
 

(☞次回、3月31日(金)「人から見た自分 (3)」へと続く)