大塚寅彦『ガウディの月』(短歌研究社:2003年)
(☜7月12日(水)「かすかに怖い (2)」より続く)
かすかに怖い (3)
雨続きの五月のある夜に、夢の中に誰かが訪れてきた。その人物は、私にダ・ヴィンチの絵画に描かれたモナ・リザは、微笑んでいるのではないという真実を告げる――
「モナ・リザの微笑」という言葉を誰しもが聞いたことがあるはずだ。ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」に描かれた女性の謎めいた微笑みは、数百年の年月を超えて人々を魅了してきた。
しかし、掲出歌に出会ってから人々を魅了してきたあの表情は、本当に微笑みなのかすっかり自信がなくなってしまった。「モナ・リザの微笑」という言葉があるからこそ、そのように見ているだけで、例えば極端な話「モナ・リザの悲しみ」という言葉が額に添えられていたのであれば、見方は変わっていたのかもしれない。
しかし、夢の中に訪れた人物はいったい何が目的なのだろうか。ある意味でモナ・リザ以上に表情がまったく分からない、そののっぺらぼうな人物の不気味な存在感が読後に残る。真実を知らなかった私を笑っているのか、それとも哀れんでいるのか――
掲出歌の次の一首にも触れておきたい。
ダ・ヴィンチの〈最後の晩餐〉絵の奥の窓には怪しき昼景色あり
えっ…そうなの、と思い「最後の晩餐」を確認してみると、確かに「晩餐」なのに外は昼のようだ。今まで一度も疑問に思わなかった。その理由には諸説があるようだが、いずれにせよ「モナ・リザの微笑」同様、人は言葉による定義におおきく引っ張られて物事を見るようだ。
(☞次回、7月17日(月)「かすかに怖い (4)」へと続く)