幼年時代の記憶をたどれば野の果てで幾度も同じ葬列に会う

永井陽子『葦牙』(1973年:愛知県立女子短期大学文芸部)


(☜7月17日(月)「かすかに怖い (4)」より続く)

 

かすかに怖い (5)

 

幼いころの記憶を辿ると、必ずある葬列に出会ったことに辿り着く――
 

「葬列に会う」と表現しているのだから、親戚などの葬列ではなく、誰か知らない人のものなのだろう。「野の果て」という現実感のない場所の提示も、葬列がほんとうにあったものなのか幻なのか分からない不穏な感覚を残す。
 

野の果ての葬列の先は、何が広がっているのだろうか。此岸と彼岸とを分ける一線がそこにありそうだ。記憶を思い返す度に、葬儀という一回性のものが幾度も繰り返される。
 

なぜ、その葬列を忘れることはないのだろうか。そのことにどのような意味があるのだろうか。気を許すと、記憶の中の葬列に加わってしまいそうになる怖さがある。
 

同じ歌集に次の一首があった。
 

帰ってゆく森を持たない鹿がいる 日暮れの街のそこだけが蒼く

 

日暮れの街にたたずむ鹿。実際に見た光景であるのか、幻想なのかは分からない。いずれにせよ、鹿の周りだけに感じられる青い空間は、掲出歌の「野の果て」と同じく、そこを超えるともう戻れないような雰囲気を漂わせている。
 
 

(☞次回、7月21日(金)「かすかに怖い (6)」へと続く)