光森裕樹


僕たちは生きる、わらう、たべる、ねむる、へんにあかるい共同墓地で

岸原さや『声、あるいは音のような』(書肆侃侃房:2013年)


(☜8月7日(月)「かすかに怖い (13)」より続く)

 

かすかに怖い (14)

 

生きる、わらう、たべる、ねむる。そういった、日常そのものとも言える行為。それが行われている場所が「共同墓地」だと言う。
 

地域によっては墓地でシートを広げて皆でにぎやかに食事をしたりする風習があるが、「(僕たちは)生きる」という大きな行為があがっていることからも、そのような実景ではなく、日々の生き方や世の中の状況を比喩的に詠んだものと解釈した。
 

私たちは誰しもが死ぬ。そう考えると、この世は広大な共同墓地と言えるかもしれない。やがて訪れる死を知りつつ、いやだからこそ、私たちは生を楽しむ。その矛盾とも順接ともとれる事柄が「へんにあかるい」という話し言葉のような表現に滲んでいるように思える。
 

短歌を長く続けていると、「へんにあかるい」という事柄をいかにして表現するか、ということろに意識が向かいがちになる。思ったこと、感じたことをそのまま口にするのではなく、どのようにして言葉を練って…というおなじみのものである。
 

しかし、時には言葉によるややこしい近道ではなく、感じたことをそのまま口にすることが、すっと読み手に届くことがあることも、経験上知っていることだ。この一首では、「へんにあかるい」という表現は、動かしがたいように思える。
 

詩を書くことは、この「共同墓地」において、自分の後にも残るものを生むという行為にほかならない。自然なようでいて、案外に不自然な行為なのかもしれない。
 
 

(☞次回、8月11日(金)「かすかに怖い (15)」へと続く)