ゆつたりと生きゆく人とゆつたりと死にゆく人が花の真下を

仙波龍英『墓地裏の花屋』(マガジンハウス:1992年)


(☜8月11日(金)「かすかに怖い (15)」より続く)

 

かすかに怖い (16)

 

花の真下を人々が行き交う。ある者は生を重ねているようであり、またある者は死へと一日一日近づいていっているようである――
 

もちろん、どちらも今このながれる時間を同じようにゆったりと過ごしていて、見た目上の区別はない。しかしよく言われるような、水の入ったコップを前にして「水は半分あるのか、半分ないのか」と考えるたとえ話のように、視点を変えれば「生きる」という行為も変わってくる。
 

結句は「花の真下を」で途切れている。「(花の真下を)行き交う」ぐらいの表現を補えばよいのだろう。しかし、省略されていることで読者はすこしばかり立ち止まり、考えることになる。その小停止の先に、「さて、私は生を重ねているのか、単に死へと向かうのか。どちらだろう?」と自らの身に惹き寄せて考えることになる。
 

掲出歌は「桜狩」という章の「悪意むなしき祖国の悪夢」という連作に収められている。「花の真下」は桜の真下を意味するのだろう。美しい桜の下には死体が…という話はもちろん、祖国と桜との結びつきには先の戦争をはじめとする死者の存在を強く感じさせる。
 

とどのつまり、さみしきにすぎ哀しみを過ぎ祖国に桜花は残酷にすぎ
夜、祖国をゆゑなく愛しこの足が洗足池へとむかひはじめる

 

仙波龍英の「桜狩」の章を読みつつ、もし終戦が桜の時期だったら、ということを思う。
 

考えても意味のないことなのかもしれない。いや、考えても意味のないことだと、思いたいだけなのかもしれない――
 
 

(〆「かすかに怖い」おわり)