底辺を高さと掛けて二で割ったことを私は必ず許さない

駒田隼也「子孫繁栄」(『上終歌会』01:2017年)


(☜8月16日(水)「学生短歌会の歌 (1)」より続く)

 

学生短歌会の歌 (2)

 

「底辺を高さと掛けて二で割」る。三角形の面積を求める式であり、誰もがなんども計算させられたものだろう。しかし、それを私は許さないという。
 

「私は必ず許さない」という表現はよく読むと面白い。例えば「私は【絶対】許さない」であったり「私は【死んでも】許さない」という表現であったりすれば、感情のこもった主観的な表現であるが、「必ず許さない」というのは「AすればBする」という法則性を述べるかのような客観性が滲む。それこそ、公式のように決まり決まったもののように。
 

例えばだれかが実際に三角形の面積を求めたのか。あるいは、三角形の面積を求めるという行為で何かを比喩的に示しているのか。両者の間を漂うような、非常に不可解で不条理な世界が一首で展開されている。
 

書かれている内容が日本語として分からないのではない。日本語として分かるからこそ、なぜこうなっているのかワカラナイ。三角形の面積を求める公式を覚えていることもあり、一首は頭のなかにこびりついて、離れようとしない。
 

生活が美しいと称されて優しさが誰か蹴りたがってる
カフェオレの砂糖加減はどうでしょう良ければお前をここで怒鳴る

 

同じ連作から引いた。「誰かを蹴りたがっている」「お前をここで怒鳴る」という表現ともに、掲出歌と同じ理不尽な暴力性がある。そして、いずれの歌においてもその暴力性が未遂であったり、相手から見ればとくに普通な様子であったりする点も見逃せない共通点であろう。
 
 

(☞次回、8月21日(月)「学生短歌会の歌 (3)」へと続く)