ガラス一枚の外は奈落の深さにて五十階に食む鴨の胸肉

久々湊盈子『世界黄昏』(砂子屋書房:2017年)


 

「奈落の深さ」にガラスの外の地続きの世界への不安の表れを想像しながら読んでいると、下句で五十階に引き上げられる。深さがとつぜんリアルなものになるこの落差は、それでも五十階分ほどはないだろう。読者の心理的な落差よりも歌に書かれた物理的な落差のほうが大きい。それによって、なにか突き抜けている、底が抜けている、という印象を持つ。たとえば同歌集中の〈海にゆく前に塗りたるペディキュアの赤も薄れぬ一夏(いちげ)の終り〉の時間軸の振れ方、結句で急速に引き寄せられる現在地の意外な遠さにも似たようなところがある。
高層部で鴨肉を食べさせるような場所はおそらく瀟洒な飲食店だけど、「ガラス一枚」「鴨の胸肉」といった、部分、しかも材質や原材料が切り出されることで絵が単純化されて、がらんどうの高所でのんきに食事をしているようなシュールな光景が思い浮かぶ。地上が奈落=地獄の底だという発想は、自分が高所にいることへのおそれでもあり、もっと言えば「胸肉」という身体のパーツのクローズアップには、高所から落ちた場合に身体に起こることの予感も含まれているだろうけれど、それと同時に、表題歌も含め世相を嘆く歌が多いこの歌集のトーンが反映された「地上は奈落」でもあるだろう。しかし、『世界黄昏』という歌集名自体あるロマンを持ってしまっているように、掲出歌にはどことなく風刺画のような可笑しみがある。
ほとんどの人は道路に引かれた白線の上をまっすぐ歩くことはできても、同じ太さの橋が極端な高所にあった場合は渡ることができないものだと思うのだけど、掲出歌はそれに当てはまらないタイプ。橋の幅を広げるわけではなく、高さにパニックになるわけでもなく、狭くても足場があるかぎりまっすぐ立ちながら奈落を覗きこめるバランス感覚を感じさせる。初句八音というかなりの不安定さにはじまる一首ははやばやとバランスを持ち直し、四句目の字余りはもうものともしない。不安定な状況での安定感、そのちぐはぐさが可笑しさの理由であるとともに、この歌の単なる高所の危険性ではないじんわりした怖さを感じさせる理由でもあると感じるとき、可笑しさと怖さは近いものなのかもしれない、と思う。

 

久々湊盈子の最新歌集『世界黄昏』は作者をどんどん好きになってしまう危険な歌集だった。歌集中で作者は七〇歳になり、死を思い、軽々と旅行にいき、身内や知己を亡くし、酒を飲み、美食し、夫をあしらい、世相を憂い、デモに参加し、だいたいのときにユーモアと美意識がある。〈檄も来ずまして艶書(えんしょ)も来ずなりてわが身ひとつに絢爛と秋〉〈生は死をはらみておれど満身に紅を鎧(よろ)いて椿ひともと〉などの重い名詞の意味を振り払い韻律の緩急だけを読ませるような艶のある歌と、〈どのような成り行きにてもわたくしは兵士の母と呼ばれたくない〉〈平和憲法があった昔はよかったと懐かしむ日が来ませんように〉などのあまりに直球な歌が歌集中に平気で同居し、しかし、どちらにも感じられる作者の手柄への無頓着さは、筋が通った態度として説得力を持つ。〈女のくせに、と言われつづけて少女期は楽しく過ぎき老女期もまた〉などはほとんど勝利宣言だ。信じたくなってしまう類の。作者を好きになりすぎると作者の姿を読みにいってしまって短歌が読めない。その魅力が定型と重なっている歌をいちおう選んできたつもりなのだけど。