平岡直子


ゆるやかな心変わりで幽霊に会えなくなった八月のこれから

N/W「幽霊たち」(Website「TOM」より)


 

五月にどうして八月の歌ばかり取り上げているのだろうと思うけれど、それはきっとわたしが八月生まれであることと関係があるのだと思う。塚本邦雄も八月生まれです。あと、最近すでに暑すぎて外気が八月とあまり区別がつかないことも関係あるかも。
暑いと生気を失ってしまうタイプのわたしが「八月の幽霊」に対して抱く親近感はさておき、日本の八月にお盆というイベントがあることはこの歌を遠くから呼んでいる。死者がやってきて、ふたたびどこかへ帰っていくらしい月。この歌の「幽霊」が直接的にたとえば「亡くした親しい人」などを意味しているとは思わないけれど、この幽霊が何者にせよ、八月ならそんなこともあるだろう、という程度の淡い説得力はある。
幽霊についてはいろいろな立場があると思うけれど、わたしは「幽霊=見間違い」派で、人のいるはずのないところに人がいたり、二度見するといなかったり、というような出来事はすべて見間違いにカウントしている。そして、短歌もまた見間違いの産物である。つまり、作者の見間違いが書き留められるものであり、読者がそこにべつの見間違いをしたりするものだと思うので、短歌のなかに出てくる幽霊には、危険な自己言及性を感じてなんだかびくっとする。とくにこの歌に出てくるのは見間違い性の高い幽霊だと思う。「会えなくなる」というのは幽霊が消えることではなく、それがみえる角度を失ってしまうことだから。「これから」が視界にひらけるのはその角度を失ったからでもあるだろう。
「幽霊」の位置に具体的な存在、たとえば仮に「友だち」や「過去の自分」を代入した場合に読みとれる種類の感情、後悔や未練をかすかに含んだあかるい諦めや、未来の空疎さへの予感などをこの歌は手放していない。どころかそういった感情は一首の核になっているのではないかと思うけれど、それでも「心変わり」にどんな物語があり「幽霊」が何の比喩なのか、といった解凍作業が要請されているようには感じない。読者にとってはそういった感情も不確かな見間違いのように角度を変えるとみえなくなるものだ。
ゆるやかな心変わり。Website「TOM」にぽつぽつと発表される連作をみるかぎり、この作者の歌の景色自体がゆるやかな心変わりのようである。結句から初句へ戻すタイプの歌ではなく、一首の入り口と出口はちがうところにあるけれど、そのあいだにはっきりした道を通すというよりは、淡い色を重ねることでいつの間にかまったく違う場所に運ばれているような。歌の途中で手札が広げられ、選択肢が発生し、その場で行き先が決められる。歌が歌のなかで考えた形跡が残っていることは歌を難解にもするけれど、ともすれば直情的なこの作者の歌の表情に豊かな木陰をさしかけているとも思う。