平岡直子


シャンプーのきみのあたまの泡のまにあたしの家があったがながした

イソカツミ『カツミズリズム』(本阿弥書店:2004年)


 

忙しい歌だ、とあきれてしまう。発見されてすぐにながされてしまう家。早口言葉のような上句。なんとなく思い出すのは菅原道真の〈このたびは幣も取りあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに〉を読むときの感覚で、この歌は内容の慌ただしさ(「急な旅だったので捧げものがなくてすいません」と神様に謝りつつ、代わりに自分のものでもない紅葉をなぜか捧げようとしている歌、だったと思います)と韻律が釣りあっていて、初句の「たび」の掛詞は優雅なテクニックというより急いでるゆえにツーインワンで間に合わせたようにみえちゃうし、結句の「マニマニ」は読むたびに笑っちゃうんだけど、掲出歌の「アタマノ」「アワノマ」は「マニマニ」みたいな呪文だと思う。
「シャンプーのきみのあたまの」までは短詩型の修辞として成立していて、ここはもちろん「シャンプー(をしている)きみのあたまの」を切り詰めた言いかただけど、切り詰めたわりに話が展開せず、シャンプーに近い「泡」が次に出てくるあたりで語順の必然性があやしくなる。思いついた順にリズミカルに発された単語の並びによって、言っている内容がかるく剥がれて呪文っぽくなるのだと思う。そして、結句の「ながした」のとつぜんの主体性。あるいは、「ながした」のは「きみ」であって、それを咎めるような口調にもみえるけれど、どっちにしても取り返しのつかないことが唐突に言い放たれる。シャンプーをする浴室があるのはたぶん家のなかだと思うけれど、それは「あたしの家」ではなく、泡のあいだのような小さくてしかもあっけない場所にしか「家」を見出せない。こういった心情はそれなりに息苦しいものだけど、せっかくの家がほんとうにあっけなくながされてしまう展開の速さには、悲劇が極まって喜劇にひっくり返ったような可笑しさがある。

海の観覧車のまえではだまってたついたりきえたりするからひかり

歌集中でおそらくもっとも知られたこの歌の奇跡的な下句は、「ついたりきえたりするからひかりなのである(ついたりきえたりしないものはひかりではない)」という、「ひかり」の性質を定義しなおす強度のある表現だとずっと思っていたけれど、全体的にあまりに忙しい歌がならぶ歌集を通して読んでふと思い至ったのは、これはただの倒置だったのではないか、ということだった。最後の「ひかり」は、つまり「ひかりが」の助詞が省略された形で、これは急いで言い足された情報だったのではないか。
「海の観覧車」にまず「シャンプーのきみ」に近い急ぎかたがあるけれど、この歌の内容をほどくと、「海(に臨む場所にある)観覧車の前では黙っていた。なぜなら、ひかりがついたり消えたりするからだ。その点滅に集中するべきだと思ったからだ」というようにも読めるし、そのほうが歌集のトーンには合っているように感じられた。そして、仮にそうだとしてもこの下句の危うい魅力は消えないだろう。
いちどに吐く息の長さがちょうど三十一音に釣りあう生理を持っている人、あるいはそう訓練された人が本来いちばん短歌には向いているとは思うけれど、短歌にはどうもそんな余裕もなく生き急いでいる人の味方につく一面がある。細切れの息でも、途中に息継ぎがない一文は短歌として書かれたときぐっとおもしろい。とにかく急いで言う。いま言うべきだと思ったなにかを言う。足りないと思ったら急いで足す。そんなぐらぐらした文の建てかたが、ゆるされるばかりでなく歌自体を「ついたりきえたり」させる装置になる。短歌のそういった性格を充分に追い風にする程度にはこの歌集はずっと早口だった。「イソカツミ」という著者名が「イソガシイ」の変奏にみえてくる。

 

やっと二人座れるだけの点のような家を想うと興奮するの/雪舟えま