大森静佳/顔の奥になにかが灯っているひとだ風に破れた駅舎のように

大森静佳『カミーユ』(2018年・書肆侃侃房)


 

ところで、岡井的レトリックのドッキング法というのは身体性に関与させるとき最もその力を発揮することになる。「動詞」というものはそもそも身体と深く関わる言葉であり、そうした言葉が喩と交接するときに官能性や痛みをともなった残虐性、嗜虐性、エグさやグロさが歌という私の身体を通過することで、そこにひとつの説得力を生むことになるのだ。そして、そのような身体性を歌に持ち込むことに女性の歌というのは非常に長けているのではないか。

 

カミーユ』のたとえば、「」という連作では、2005年のドイツ映画『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』を主題に編まれている。この映画はナチス政権下のミュンヘンで反ナチスのビラを配って逮捕された女学生ゾフィーが処刑されるまでの最期の日々を描いたもので、おそらくは映画の印象的なシーンを連作に手繰り寄せつつ、〈おまえまだ手紙を知らぬ切手のよう街の灯りに頬をさらして〉〈くちびるをふるわせてもの言うことのあと何度あるおまえのほとりに〉というような、〈おまえ〉という強い呼びかけによって作者がゾフィーに語りかける。そのような主観を軸にしつつ、一方では連作の中に、以下のような叙景歌が置かれてゆく。

 

河沿いをひとりあゆめば光へと身を投げるごとく紅葉する木々

枝から枝へおのれを裂いてゆくちから樹につくづくと見て帰りたり

 

私は映画を見ていないのではっきりとはわからないのだけど、こうした叙景歌は映画の中のシーンとしても読めるだろうか。「河沿いをひとりあゆめば」や「つくづくと見て帰りたり」が主人公ゾフィーの裡側から風景を見るような。〈おまえ〉と突き放しながら、〈わたし〉を裡側からゾフィーに接近させていくような映画を見たあとの時間というものが叙景歌を通して連作のなかに折々差し込まれていくのだ。そしてここでは風景のなかに「身を投げるごと」「おのれを裂いてゆくちから」という身体的な苦痛が見出される。なによりも自身を取り巻く風景からの、この間接的な身体的苦痛の見出し方に主人公への接近があるのであり、それは歌によって自身に取り込まれることにもなるのだ。つまり、主人公と私が歌の身体性を通して交差することになる。

 

わたしを溢れわたしを棄てていったのだ、心は。銀の鴉のように 

きれいな地獄

殺されてうすいまぶたの裡側をみひらいていた 時間とは瞳

 

ところでこれらの歌では身体的な有機性が、歌の末尾の「銀の鴉」「時間とは瞳」という硬質な比喩によって断ち切られる印象がある。そしてここに寧ろ、〈冬の駅ひとりになれば耳の奥に硝子の駒を置く場所がある〉というような初期歌篇にも通じる大森独自の言語質がうかがえるように思う。有機的な言葉の動脈をあるところで無機的な観念性が氷結する。そのようないわば熱と冷却との二つの衝動が時に先走りながら、繰り返されるモチーフの中でトレモロのようなカタルシスを生じさせていくところに『カミーユ』という歌集の切迫感があるのだ。

 

顔の奥になにかが灯っているひとだ風に破れた駅舎のように

 

この一首は、全てを読み終えれば、顔の奥になにかが灯っていることと「駅舎」というレトロな建築物の奥に灯る火が情緒的なつながりを感じさせる。これは順接な比喩でもあるのだ。けれども、「顔の奥になにかが灯っているひとだ風に破れた」までを読んできたときの感覚は、一瞬、「駅舎」によって裏切られるというか、何か別のイメージが畳み込まれたような印象を受ける。

 

そもそも「駅舎」という言葉はそんなによく見かけるものではなく、例えば、河野裕子の、

 

さびしさよこの世のほかの世を知らず夜の駅舎に雪を見てをり

 

この有名な一首がすぐに思い出されるのであるが、ここでは「この世のほかの世を知らず」という人生における空間が「駅舎」と「」というレトロなシチュエーションを喩的にも包括する優れた順接性があり、それは、「見てをり」という現在地点のノスタルジーを喚起させることになる。この歌の「この世のほかの世を知らず」もまた、大森の〈この世からどこへも行けぬひと〉〈生前という涼しき時間〉といったフレーズを思い出させ、大森の歌が河野裕子の影響を強く受けているか、少なくともシンパシーを持っていることは間違いないと思うのだけれど、たとえば大森の「駅舎」の歌では、河野裕子の歌にあった順接性が裁断されてゆく形跡がその表面に引っ掻き傷のようにとどめられているところに特徴がある。

 

風に破れた」まで読んできたとき、「」が風に破れたような印象を一瞬受けるのだ。顔の皮膚が破れるような、「破れる」は、そういう一枚の薄い何かを思わせる。上句と下句の二つのセンテンスが「kao」と「kaze」という頭韻から書き起こされるのもこの印象を強くする。けれども、破れたのは「駅舎」であるのだ。どう考えても破れそうもない「駅舎」というものがここに置かれるとき「駅舎」という建造物の硬質度が増す。イメージが一瞬裁断され、破れた奥の光景として「駅舎」が建つことになる。そしてなお全体としては二つの比喩は「ような」によって順接に繋がるのである。

 

大森静佳の歌は岡井的レトリックを十全に機能させながら、一方で、その有機性を断ち切ることで歌に起こる分離に寧ろその特性を発揮している。分離によってそこに鏡面的な作用が引き起こされているのである。これはある意味では合わせ鏡の構造の延長線上ということもできるかもしれず、そのような現代短歌のレトリックの過程として見るのも興味深いし、また、大森自身の言語質とも密接に関わって見えるところにその可能性の幅を考察してみたくもなる。