森尻理恵/姫神山は花崗岩ゆえ噴火せぬと朝日に光る山を指差す

森尻理恵第二歌集『S坂』(2008年・本阿弥書店)


 

森尻理恵の歌集は読まされる。一つには作者自身の興味関心が常にいそいそと動いているからだ。ブラタモリのような土地に対するマニアックな興味関心、恐竜に対する研究者ならではの目線、それらをただ観察しているというのとも違って、人に伝えようとする主体的な口調には物知りの先生から話を聞いているような愉しさがある。

 

首と尾を水平に伸ばすが定説となり恐竜は組み直されぬ  

首と尾は水平に伸ばして恐竜の「スー」は立ちおり新説通りに 

 

S坂』の「恐竜展」と題された一連であるけれど、この二首は離れたところに置かれている。「首と尾を水平に伸ばすが定説となり」と一度詠っておきながら、もう一度「新説通りに」というふうに、何度も言う感じが作者の関心の高さを伝えていて、そういう先生の横で課外授業でも受けているようなわくわくした気分になってくるのだ。

 

北千住の明治の地図に荒川の無きこと示せば学生どよめく 

 

これは、『虹の表紙』の歌。作者は研究職の傍ら、大学の講義も受け持っている。
「北千住の明治の地図に荒川がない(!?)」という事実が学生を「どよめかせる」。みんなが知らないことを教える歓びが端的な文体のなかにしっかり息づいている。「示せば」あたりにそれが出ているわけだけど、一方で学生の前で顔色一つ変えずにやっている感じも出ていて、そこが、すごくいい。森尻さんの授業は面白いだろうなあと常々思わされるところです。

 

微地形の高低から見た川の跡を桜木見上げる母に教える 

 

教えるのは生徒に限らないわけで、森尻さんにかかれば誰もが生徒だ。
この歌は佐太郎が晩年に住んでよく詠っていた世田谷、目黒の蛇崩川(現在は暗渠)を訪れた場面。お母さんのほうは、のんびり風景を楽しんでいるところに、横から森尻さんが「微地形の高低から見た川の跡」という小難しいことを解説している。「桜木見上げる母に」というふうに、気の散っている生徒側の様子も書かれることで、二人の関係性が見えて来て可笑しい。

 

ともかくも、こうした端的でシンプルな文体が不思議なほど一人の人物像を感じさせてくる。そして「教える」という人の在り方はなによりも純粋な表現であることを思うのだ。

 

姫神山は花崗岩ゆえ噴火せぬと朝日に光る山を指差す

 

岩手県の姫神山(ひめかみさん)はとても美しい山で、啄木が愛したことでも知られていて、

 

高山のいただきに登り/なにがなしに帽子をふりて/下り来しかな

4月26日:日々のクオリア

ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな
汽車の窓/はるかに北にふるさとの山見え来れば/襟を正すも 石川啄木

 

これらの山は岩手山か姫神山のどちらかだろうと言われている。(それにしても「ふるさとの~」や「汽車の窓~」はあまりに有名すぎてあんまり考えてこなかったんだけど、ほんとにいい歌だなあ)

 

先の蛇崩川の歌もそうだが、森尻さんは文豪ゆかりの場所にもせっせと足を運んでいて、これは「旧渋民小学校」という一連の歌であり、当然ながら啄木を意識しての旅なのである。

 

姫神山は花崗岩ゆえ噴火せぬと朝日に光る山を指差す

 

姫神山は花崗岩ゆえ」という授業がここでもはじまっている。そしてこのような人の教授を通過することで、不思議なほど山の美しい姿がありありと出現するのだ。
朝日に光る山を指差す」は、ふつうならその山を単に指さしているんだけど、ここでは「姫神山は花崗岩ゆえ噴火せぬ」っていう森尻さんの知識が、それを教える歓びがまっすぐに山を指差していて、そういう人のちょっと煩いくらいの生真面目さが、視線の先の山の輪郭をくっきりさせる。

 

私は人が生きることとか表現ってものは、自分がいる世界に匂いづけしていくことだとわりと思っていて、森尻さんのこういう知識や関心、興味によって匂いづけされていく世界が、とても好きなのである。