岩尾 淳子


人みながねむる眞晝の野原なれ乗りてなき自轉車遠く過ぎたり

 

前川佐美雄 『白鳳』「前川佐美雄全集 第一巻」砂子屋書房 2002年

 

真昼の気だるいような夏草のしげる野原だろうか。すがたは見えないが、たくさんの眠り続けている人たちがいる。おそらくは「私」も眠る一人であるのだろう。あるいはそうでありたいと願っている気がする。すべての意識がうごきを止めて眠っている野原は、なんと清浄でしずかなこと。その空無の世界をひとつの自転車が過ぎてゆく。もちろん、乗り手はないままに。そしてこの自転車もしずかな真昼の野原のなかへ消失してゆくのだろう。

 

ところで、この風景をみている眼はだれのものだろうか。人が皆眠るなかで、醒めている眼がある。あるいは、眠ることではじめて見えてくる世界を体験している眼がある。眠りによって覚醒する意識。それは現実の世界から離れて、アンニュイでしかも至福感のただよう野原がひろがる天上的な世界を立ち上げている。そして自転車は人から開放されて、物そのものとしてのかがやきを放ちながら野原をゆったりと通り過ぎてゆく。この自転車こそがおそらく「私」の化身であるのだろう。自己意識を消失させて風のように軽やかに走り去ってゆく存在。

 

ここでは、自転車を現実離れした空間になげこむことで、なつかしいようなポエジーが生まれている。こうしたピュアな詩精神は遠いもの、遙かなものへの痛切な憧れからからくるのだろう。おそらくは作者に埋め込まれた狂気の流離する一面と思える。それは生来のものでもあろうけど、また現実世界のなかでの軋轢や葛藤、失意によって痛めつけられた精神が希求した世界でもあったろう。この歌のように明るくてどこかメランコリーな香りもするねむりの野原。

 

歌は現実のなかにはない、歌はたよりないもの、消えてしまうものでいい、と佐美雄は自分の短歌観を記している。それは、そのまま「詩とは」といいかえてもいい。詩は現実を再現することでもなければ、何かを強く主張するための言葉でもない。見えないものに形をあたえること、非在の美を詠むことこそが歌ではないのか。ここには、滅んでゆく世界をしずかに見据える醒めた眼差しがあるようにも思えるが、どうだろうか。