つかみつつ、探るのだ、その軟便を、或いは便座そのものをさへ

                  岡井隆  『未来』4月号 2020年

 

 

タイトルに〈便座考〉とある7首の連作の掉尾に置かれている。まずタイトルに驚いて、ちょっとひるんでしまった。どんなモチーフでも読みこなしてしまう作者ならでは。しばらく反応できなかったけど、何度か読んでいるうちに、悪行にも似た創造への執着が〈便〉という混沌のなかで激しく燃焼しているようで末恐ろしくなった。美はときに奇妙なものといったのはボードレールだけど、この歌人の追い続けた詩歌はまさに異形の美の様相を呈するに至ったというべきか。

 

そもそもタイトルになっている〈便座〉とは何なのか。そして〈軟便〉とは。連作の3首目から5首目はそこに言及している。

 

フロイドの性欲説の肛門期アヌスきをここで便座につなぐなどてふ

考えはああ!僕もまたしたくないのだ、なぜつていへば

遠き母の家にてあたたまりゐたる便座の恋ほしさゆゑに

 

文体は屈曲しているが、ここで便座は、そのあたたかな肌触りから、幼子であった作者を無償の愛で庇護してくれた母そのものを表象しているようだ。そして今、肛門期にもどった幼子として最愛の母を恋う思いがあふれている。便座は母そのものかもしれない。

また便は、自らのからだの一部であり、幼子にとっては創造物ともいわれているように自らが創造したものの表象であろう。そして、この連作で最初に肛門にこだわるのは、生を支えてきた欲望の根源を見定めようとする自己同定の衝動ではなかろうか。

 

さて便は、生涯をかけてきた創造行為そのものを表象するものであり、また便座は、その精神性をささえてきた母なるものの表象、と解いてみたいがそう単純でもないか。これでは感傷的すぎる。

もしかして便は、創造物なんかではなくて、単なる肉体の排泄物であり、自らの死の一部といえないか。恋い慕う母は、すでにこの世になく、冥府の住人。便座とは、うすぐらき冥府へさそう門ではないか。そうした激しい覚醒が生と死の実相を照らし出している。

 

安直な安らぎにゆくのではなく、絶望のなかで生と死について執拗に対話を続けている。まるで死神の首を引き出すような気迫か。自らの肉体に、そして実体に切迫してゆく強烈なリアリズムがあり、醒めた存在論的遡及がここにある。

生と死、肉体と精神。安らぎと恐怖、汚濁と救済、ふたつを往還するダイナミズムが、離反と結合に揺れ動く文体となって刻みつけられている。死に直面しながら、ひるむことのない凄まじい創造の鬼神がここにいる。